知られざる徳川将軍家の内幕
徳川15代将軍列伝 〜 江戸幕府を開いた家康から、最後の将軍・慶喜まで〜 第1回
265年にも及ぶ強固な支配体制はいかに構築されたのか?

徳川家を象徴する「三葉葵」の紋。その由来は諸説があるが、初代の松平親氏の頃から存在したする説や、家康自身の創作説もある。
豊臣秀吉の没後、徳川家康は関ヶ原合戦で勝利し、ほぼ天下を掌中にした。その後、征夷大将軍に任じられた家康は江戸に幕府を開いた。ここから2代将軍・秀忠、3代将軍・家光に至る40年余りで統一政権の体制づくりに全力を注ぎ、幕藩体制(と、ここでは便宜的に呼ぶ)という世界史的にも類のない強固な支配体制を作り上げた。その命脈は慶長8年(1603)2月の家康の将軍位就任から慶応4年(1868)4月の15代将軍・慶喜による江戸開城まで265年に及んだ。
政権を永続するに当たって最も大事なことは、相続を巡る世継ぎ問題である。戦国時代の有力大名であった武田家・織田家・伊達家など、どこにも相続を巡るお家騒動の芽はあって、流血の惨事が展開された。そこで家康は、家光を3代将軍に決める時点で「長子相続制」を定着させた。
もう1つの政権永続への問題は、徳川家に敵対する可能性のある大藩・大名への対処であった。関ヶ原合戦で「反徳川(家康)派」の大名はほぼ除去したものの、豊臣家はまだ現存していた。その後、大坂の陣(1614年・冬の陣。1615年・夏の陣)で豊臣秀頼を滅ぼして徳川政権を固めたが、まだ秀吉子飼いの大名は残っていた。結果として、幕府は福島正則(芸州広島49万8千石)を元和5年(1619)に、また加藤忠広(肥後熊本52万石。父・清正は既に死亡)を寛永9年(1632)に改易(かいえき)している。
さらには、武家諸法度と参勤交代制度によって、諸大名を完全に押さえ込んだ幕府は、次に朝廷対策として禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)を制度化し、2代将軍・秀忠の娘・和子を後水尾(ごみずのお)天皇に送り込むことで、天皇家・公家をも取り込んだ。また、鎖国体制(国を閉じる意味ではなく海外情報と外国貿易の幕府独占を狙いとしたもの)を完成させた。
この幕藩体制は、徳川幕府と諸侯とから成る支配体系をいい、大名の数は「300諸侯」と総称したが、本当のところ270前後の大名であったといわれる。この大名も徳川将軍家との関係から「親藩(将軍家と縁戚関係にあるもの)」「譜代(関ヶ原以前から徳川氏に服属して忠節を尽くしてきたもの)」「外様(関ヶ原以降に徳川氏に服属したもの)」に区別された。
だが、幕府を主宰する徳川宗家も1個の領主であった。外様大名のうち最大なのは加賀・前田氏(102万5千石)、薩摩・島津氏(72万石)、米沢・伊達氏(62万石)だが、徳川宗家はこれらを遙かに上回る700万石という所領を持っていた。この700万石を二分し、約300万石は旗本に知行地(ちぎょうち)として与え、残る400万石を幕府直轄地として、勘定奉行のもとに支配した。いわゆる「天領・御料」と呼ばれるのが直轄地である。天領には代官がいたが、一般には大名領よりも天領の方が年貢は安かったという。
これらが家康から始まる徳川将軍家の内幕である。