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江戸の海防を任された徳川家康の水軍編成のブレーン船奉行・向井正綱とは?

「どうする家康」 天下人の選択をささえたブレーンたち 【第9回】


陸の合戦では無類の強さを発揮した徳川家康(とくがわいえやす)だが、水軍に関しては後発の大名であった。同じ関東の武田、北条の水軍のノウハウを吸収しながら、独自の水軍を整備していった。徳川水軍のキーマンとなった向井正綱(むかいまさつな)の人物像に迫る。


徳川家康に仕えた20人の主要家臣団を描いた絵画。これ以外にも多くの作品があり、描かれた武将、その数も異なる。「徳川二十将図」出典/ColBase(https://colbase.nich.go.jp/) など

 水軍・海賊衆といえば、安芸(あき)の毛利(もうり)や織田の水軍が知られる。関東地方では、北条氏が水軍を組織し、山国のはずの武田氏も信玄(しんげん)が駿河(するが)を領有してから水軍を編成した。その中核となったのは、信玄に招かれた伊勢の海賊衆(小浜・間宮・向井氏など)であった。

 

 武田勝頼(たけだかつより)が滅亡した後、家康は武田水軍の小浜・向井・間宮氏を核にして水軍組織を作った。というのも、家康の徳川には水軍がなかったのである。不思議なことに、海に面した三河(みかわ)なのに、と思われるが、実は領国支配の上で家康には水軍の必要性がなかったからであった。つまり、家康が天下人を目指していた訳でもないし、領国を広げるよりも三河あるいは遠江(とおとうみ)という自らの領国を守ればよい、という意識しかなかったためであろう。家康が本格的に水軍編成に着手するのは、天正年間の10年代(1582~91)になってからのことである。

 

 天正12年(1584)3月、家康は小牧・長久手の戦いで秀吉(ひでよし)と戦った。この時、編成したばかりの水軍の将・小浜景隆(おはまかげたか)と向井正綱、間宮信高(まみやのぶたか)らが秀吉の水軍の将・九鬼嘉隆(くきよしたか)と戦い、敗走させた。家康を喜ばせたのは言うまでもない。

 

 中でも向井正綱は、家康にとってかなり頼もしい海賊衆と映った。徳川家に臣従した最初こそは、200俵という扶持に過ぎなかったが、その目覚ましい活躍を重ねるに従って徳川水軍の中心的な存在になった。

 

 天正17年(1589)からの秀吉政権下の小田原征伐・北条討伐合戦では、豊臣水軍と並んで相模湾に終結した徳川水軍は、北条水軍と戦って勝利を収めた。この時点での徳川家の地位は、豊臣政権の1大名に過ぎなかったが、水軍の展開は豊臣以上と評価された。この合戦で、向井正綱は「国一丸」と名付けた愛船で相模湾から駿河湾、さらには伊豆までの広い範囲を駆け巡った。

 

 北条氏が滅んだ後の天正18年7月、家康は秀吉から領国の三河・駿河・甲斐・信濃から旧北条領の関東に移封となった。この8月に家康は江戸に入って、この地を自らの首府と定めた。

 

 正綱は、家康から相模(さがみ)・上総(かずさ)に併せて2千石を貰い、相模国・三崎に入った。同時に正綱は徳川氏の船奉行に任じられた。船奉行としての正綱の役割は江戸湾の警固であり、合戦時には海路を安定させる仕事も担った。なお、小浜景隆も正綱同様に船奉行並として重く扱われている。

 

 正綱は、寛永元年(1624)5月に病死。享年68。海一筋に生きた戦国武将であった。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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