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徳川家康関東5ヶ国時代の民政ブレーン「伊奈忠次」の検地・知行・年貢制度改革とは?

「どうする家康」 天下人の選択をささえたブレーンたち 【第5回】


豊臣秀吉により本拠地・三河・遠江から、関東に国替えを命じられた家康最初の施策は江戸の町づくりであった。ほぼ未開であった江戸の町づくりに抜擢された伊奈忠次の活躍に迫る!


徳川家康に仕えた20人の主要家臣団を描いた絵画。これ以外にも多くの作品があり、描かれた武将、その数も異なる。「徳川二十将図」出典/ColBase(https://colbase.nich.go.jp/) など

 伊奈忠次(いなただつぐ/通称・熊蔵。1550~1610)は、三河生まれながら、一向一揆の際には父・忠家(ただいえ)とともに一揆側に身を置いた。長篠(ながしの)合戦で陣借りをして、後に家康に再び仕えた。その後は、家康の嫡男・信康(のぶやす)付きとなったが、信康の自刃(じじん)後には出奔(しゅっぽん)して堺にいた。天正10年(1582)6月、本能寺の変に際して、堺に来ていた家康に再会し「伊賀越え」にも護衛の1人として参加、再び帰参が許された。

 

 三河・遠江(とおとうみ)の奉行職を委ねられ、後には代官衆の筆頭に抜擢される。秀吉の小田原征伐(北条氏滅亡)の際には、秀吉から駿河(するが)・遠江・三河の道路・船・橋梁(きょうりょう)の整備を命じられ、これを実行した。

 

 家康が関東に入国した後は、関東代官頭として民政に力を入れた。家康が忠次を見込んだのは「前代の領主であった北条氏は民政に長けており、領民感情は北条氏を懐かしんでいたから、その関東経営は難しかった」からである。家康は「伊奈忠次ならば、問題なく民政を行うだろう」と期待した。

 

 関東は、日本最大の沃野(よくや/肥沃な地域)であったが、利根川・荒川など大きな河川があって、季節ごとに氾濫を繰り返すばかりか、その流路もしばしば変えるために沼沢や荒れ地が増え、豊作と凶作とが交互に来るなど、農業の格差が著しかった。忠次は、新田開発や検地などで土地の有効利用と農業の収穫安定を図った。こうした忠次の水利事業は成功を収め、後に「伊奈派」とか「備前派(忠次の官位が備前守であったから)」と称される。

 

 忠次は、関東の水運・治水・土地の有効利用ばかりでなく、同僚の青山忠成(あおやまただなり)らとともに、徳川家臣団の関東における知行(ちぎょう)割りも担当した。家康の新しい領国での本格的な組織作りの基本となる作業である。家康の意を受けての知行割りであるが、その総奉行は四天王の1人・榊原康政(さかきばらやすまさ)であり、その下に忠次や青山らがいて、実行部隊となった。

 

 知行割りは、武藏(むさし)をはじめ江戸の周辺諸国に100万石を上回る天領(直轄地)を設置し、徳川一門・譜代上層部から42名を1万石以上の大名に仕立て、北条氏一族や家臣の支城を中心に、領国外の敵対勢力(例えば、伊達氏・佐竹氏・最上氏・上杉氏・里見氏など)に対峙するような形で有力な上級家臣団(四天王・十六神将/じゅうろくしんしょう/など)を領国の周辺部に置き、それ以下の石高の家臣団を領国の中央部に配置した。上野・箕輪(みのわ)12万石の井伊直政(いいなおまさ)、上総(かずさ)・大多喜(おおたき)10万石の本多忠勝(ほんだただかつ)、上野・館林(たてばやし)の榊原康政、下総(しもうさ)・矢作(やはぎ)4万石の鳥居元忠(とりいもとただ)などがその代表的存在である。

 

 こうした家康の新領国は、結果として江戸の強固な防衛態勢が敷かれることになった。

 

 こうした功績に対して、家康は忠次に武藏国足立郡小室(埼玉県伊奈町)と鴻巣(こうのす)併せて1万石を与えた。忠次の領国経営も「民政」に力を入れ、領民からは「神様」として崇められたという。忠次の善政は、伊奈町という命名にもなった。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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