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生涯57度の戦いで一度も負けなかった「無双の勇士・本多忠勝」はどのような人生を歩んだのか?

今月の歴史人 Part.4


大河ドラマでも常に若きしの徳川家康の側で働いていることが描かれている本多忠勝。武勇に優れた武将として人気も高い。ここでは改めて本多忠勝がどういった人生を歩んだのかを紹介する。


 

■幼いころから徳川家康に仕え「無双の勇士」と評された

 

本多忠勝
安祥松平氏の最古参である本多氏の系譜で本多忠高の長男として幼いころから家康に仕える。19歳で旗本先手役となり、以後は徳川四天王として桑名に移されるまで家康を支えた。

 

 本多忠勝(ほんだただかつ)は、武勇に優れた武将として家康に仕えた。人気の高い武将でもあり、家康に過ぎたるものとして「唐の頭に本多平八(忠勝)」と評されたほどの人物である。この狂歌(きょうか)は、同時代の細川忠興(ほそかわただおき)が書状にそれらしきことを認めており、当時から流布していたのだろう。

 

 また、忠勝の武勇を語るものの一つとして、生涯57度の戦いに臨んだが、一度も不覚を取ることなく、しかも戦傷することすらなかったという。ただし、忠勝と鑓合わせした敵方の家譜には双方ともに傷を負ったとしているものもある。もっとも、この記述すら、忠勝の武功が周知されていたことを踏まえた上で、あえて記した可能性もある。

 

 忠勝の本多家も譜代家臣の家柄だが、祖父、父が相次いで討死したため、忠勝が世に出るのは桶狭間の戦いに際し、大高城(おおだかじょう)への兵糧入れに従軍した時である。その後、今川との戦いや三河一向一揆との戦いでも武勇を示し、家康から高く評価され、永禄9年(1566)には都築秀綱(つづきひでつな)をはじめ騎馬50余人の与力を付けられた。家康の最初の直轄軍隊ともいわれ、旗本先手役として、一軍の将に成長していく。

 

 元亀元年(1570)の姉川(あねがわ)の戦いでも朝倉軍の備えを追い崩し、優勢の浅井軍に突撃して奮戦。三方ヶ原の前哨戦ともいえる一言坂(ひとことざか)の戦いでは、殿軍として7、8度も返し合わせて撃退し、味方を無事撤退させることに成功した。

 

「神君伊賀越え」に際しては、小人数のままでの弔い合戦を望む家康を諫め、本国に戻ることを優先させ、逃避行では先頭を進み、家康を無事帰国させたという。小牧・長久手の戦いの時には、秀吉の大軍にたった300の兵で対抗した武勇も名高い。これ以前には、信長から「花も実も兼ね備えた勇士なり」と賞され、秀吉からも「無双の勇士」と絶賛されている。

 

 武勇だけでなく、上杉謙信との折衝について取次役を務めることもあった。また、本能寺の変直後の弔い合戦に向けても、美濃の武将などに協力を求める副状(そえじょう)を発給している。

 

 秀吉の妹・朝日姫(あさひひめ)が家康の正室として入輿するに際し、家康は天野康景(あまのやすかげ)を使者として派遣したが、秀吉は面識がない人物を派遣したとして立腹し、酒井忠次、もしくは本多忠勝か榊原康政(さかきばらやすまさ)を派遣するように指示があり、結局は忠勝が使者となって大坂城に登城し、無事納采の役を果たし、秀吉から脇差などを贈られた。

 

 小田原攻めでは武蔵、上総、下総、上野、下野の5ヵ国で48の城を攻略したという。家康の関東転封後は上総国に入り、大多喜城10万石を領した。

 

大多喜城
家康の関東移封に伴って忠勝は上総国夷隅郡大多喜に10万石を与えられ、小田喜城を改築し3層4階の大多喜城を築城した。

 

監修・文/和田裕弘

(『歴史人』2023年5月号「人物相関図でわかる! 徳川家康人名目録」より)

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