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徳川家康の天下取りを支えた「榊原康政」とはどのような人生を歩んだのか⁉

今月の歴史人 Part.3


大河ドラマでも若きしの徳川家康の側で常に動いていた榊原康政。のちに徳川四天王と呼ばれるまでに成る康政の歴史は知られているようで、あまり知られていない。ここでは改めて榊原康政がどういった人生を歩んだのかを紹介する。


 

■本多忠勝とともに19歳で先手役に。数々の合戦で先陣を務める

 

榊原康政
本多忠勝と同い年で、同様に19歳で旗本先手役に。徳川四天王の1人として姉川の戦いや三方ヶ原の戦い、長篠・設楽原の戦いなどで武勲を挙げた。(東京国立博物館所蔵/出典:ColBase)

 

 榊原康政は、いわゆる「徳川四天王」の一人である。

 

 康政の榊原家は伊勢の仁木氏(につきし)の後胤(こういん)ともいう。桶狭間の戦い後、家康が大樹寺(だいじゅじ)に入った時、初めて拝謁(はいえつ)し、側近として仕えるようになった。三河一向一揆蜂起の時に初陣し、「康」の偏諱(へんき)を賜り康政と名乗る。

 

 今川方の吉田城を攻撃した時、本多忠勝(ほんだただかつ)、鳥居元忠(とりいもとただ)らと先手を承り、以降、旗本の先鋒として出陣したという。後に一手役(旗本先手役)を命じられ、与力を付属させられた。19歳の若武者だったが、「豪傑の器」を評価されてのことだった。

 

 永禄11 年、今川方の堀川城を攻めた時、先鋒として攻略したが、戦傷を負った。心配した家康は康政の屋敷を訪れて康政を見舞ったという。その後、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦いなどにも従軍し、主に先陣として武勇を示した。長篠の戦いでは、本多忠勝、大須賀康高(おおすがやすたか)、鳥居元忠らと敵中に突入して縦横に奮戦し、勝利に貢献した。また、天正9年(1581)の高天神城の攻略戦では先駆けし、40余の首級を獲た。「伊賀越え」にも供奉したという。

 

黒糸威二枚胴具足 兜
榊原康政が所用したとされる兜。肖像と同様、不動明王剣立物が特徴的。(東京国立博物館所蔵/出典:ColBase)

 

 小牧・長久手の戦いでは、本陣を小牧山に据えるよう進言した。家康は康政が堀秀政(ほりひでまさ)軍に敗北したと聞いて心配していたが、康政が無事に本陣に戻ってきた時、涙を流して喜んだという。

 

 また、豊臣秀吉方の諸将に対して、「秀吉は信長の君恩を忘れ、後継者の信雄と戦うことは、悪逆も甚だしい。秀吉に従う者は義を知らない」という旨の書を送って秀吉方の戦意を挫いた。激怒した秀吉は、康政を討ち取った者には望み通りの恩賞を与えると触れたほどであった。

 

 北条攻めにも従軍し、小田原城の受け取りや北条氏う じ政ま さ自害の検視役の一人として立ち会った。

 

 関東転封後は、上野国舘林城10万石を拝領した。家康の近習外様衆(きんじゅうとざましゅう)を五組に編成した時、井伊直政(いいなおまさ)、本多忠勝らとともに一組の大将に抜擢された。

 

 慶長5年(1600)の上杉景勝(うえすぎかげかつ)討伐の時、南蛮渡来の甲冑を下賜(かし)され、吉例によって先陣を拝命する栄誉を受けた。関ヶ原の戦勝後は、家康の命で、井伊直政、本多忠勝らとともに、政事にも関与するようになったという。

 

 慶長11年4月、罹病(りびょう)した時には家康から村越直吉(むらこしなおよし)が使者して派遣され、病状を見舞ってもらった。家康は武道については「康政こそ多勢を指揮することをよく弁えたれ」と高く評価していたという。

 

監修・文/和田裕弘

(『歴史人』2023年5月号「人物相関図でわかる! 徳川家康人名目録」より)

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