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徳川家康の視点から見た「桶狭間の戦い」とはいかなるものだったのか⁉

今月の歴史人 Part.1


徳川家康の人生において、天下人への道のりの転機ともなった、といわれる桶狭間の戦いは、はたして家康にとってどのような戦で、どのような意味があったのだろうか?


 

■徳川家康が目の当たりにした衝撃的な下剋上!

 

桶狭間古戦場に立つ織田信長と今川義元の像。

 

 永禄3年(1560)5月、今川義元(いまがわよしもと)は桶狭間(おけはざま)の戦いで尾張(おわり)の織田信長(おだのぶなが)に討ち取られた。そのとき徳川家康(当時は松元康。以下、家康で統一する)は、今川方に与して戦った。以下、家康の動きを追うことにしよう。

 

 5月12日、義元は自ら大軍勢を率い駿府(すんぷ)を出発し、5月18日には、尾張と三河の国境付近にある沓掛城(くつかけじょう/愛知県豊明市)に入城した。このとき、義元から先鋒を命じられたのが、家康だったのである。

 

 大高城(おおだかじょう/名古屋市緑区)を守る今川氏配下の鵜殿長照(うどのながてる)は、義元に城中の兵糧が不足していることを訴えた。大高城は織田方にすっかり包囲され、極めて厳しい状況にあり、落城が迫っていたのである。

 

 報告を受けた義元は、ただちに兵糧の補給を家康に命じた。しかし、家康は、織田方に包囲された大高城に兵糧を運び込むことが極めて困難であると考えた。考えようによっては、義元が家康に無理難題を押し付けた感がある。

 

 そのような状況にかかわらず、家康は5月18日に織田方の鷲津(わしづ)砦と丸根(まるね)砦(ともに名古屋市緑区)の間を縫うように突撃し、城中に小荷駄隊(兵站の輸送部隊)を送り込むことに成功すると、そのまま大高城に留まった。家康の大活躍により、大高城は落城を免れたのだ。

 

徳川家康が先鋒として兵糧入れを成功させた大高城の跡。

 

 その後の家康は勢いに乗って、丸根砦に攻撃を仕掛けた。丸根砦を預かる織田方の佐久間盛重(さくまもりしげ)は、500余の兵とともに打って出たが、家康の軍勢に敗北し戦死した。

 

 鷲津砦を守備する織田方の飯尾定宗(いいおさだむね)、織田秀敏(ひでとし)は籠城戦を試みたが、それは叶わず討ち死にした。こうして大高城の周辺は制圧され、織田勢力は一掃されたのである。しかし、家康は勝利の余韻に浸っているゆとりがなかったに違いない。

 

 義元が信長の正面攻撃により討たれたのは、5月19日だった。最近の研究によると、奇襲攻撃は誤りとされている。同じ日の夕方、家康のもとに外叔父・水野信元(みずののぶもと)の使者・浅井道忠(あさいみちただ)が訪れ、義元の死を報告した。家康は、きっと驚天動地の心境に陥ったに違いない。

 

 同時に信元は、織田方が来襲する前に、大高城を退去するよう家康に勧めたのである。家康の心境は推し量るしかないが、父祖伝来の三河支配への強い意欲を抱いたことであろう。もはや、主の義元はこの世にいないのだ。

 

 家康は引き続き情報収集に努め、夜半になって大高城をあとにした。翌5月20日、未だ岡崎城(愛知県岡崎市)には今川氏の残党が残っていたので、家康は松平氏の菩提寺・大樹寺(だいじゅじ/愛知県岡崎市)に入り軍事衝突を避けた。同月23日、今川氏が岡崎城を捨てたので、家康は晴れて入城したのである。

 

【家康目線】家康の目的は勝利にあらず

 家康が義元の軍勢に従ったのは、同盟を結んでいた以上、仕方のないことだった。信長の本拠の尾張は、家康の本拠がある三河西部の隣だったので、撃退するだけのメリットはあった。

 

 当時の今川・織田の戦力を比較すれば、家康は今川が負けるとは思わなかっただろう。積極的に攻撃陣に加わることで、大いに戦果を挙げ、来るべき岡崎復帰を念頭に置いていたに違いない。

 

 しかし、驚くことに今川氏は負けるどころか、当主の義元まで討たれてしまった。家康は動揺しただろうが、ただちに岡崎帰還が頭を掠めた。

 

 まったくの想定外だったが、家康は見事に岡崎城を奪取することに成功し、運よく本懐を遂げたのだ。

 

監修・文/渡邊大門

(『歴史人』2023年5月号「人物相関図でわかる! 徳川家康人名目録」より)

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