家康の冷静沈着な判断が冴え渡った「桶狭間の戦い」
史記から読む徳川家康①
1月8日(日)放送の『どうする家康』第1回「どうする桶狭間(おけはざま)」では、桶狭間の合戦における松平元康(まつだいらもとやす/松本潤)の様子が描かれた。無事に任務を果たした元康だったが、戦場のど真ん中で予期せぬ事態に接し、決断を迫られることになる。

愛知県名古屋市にある大高城の本丸跡。現在は大高城跡公園として整備されている。1560(永禄3)年に兵糧入れを行なった家康は、今川義元を迎え入れるため、本丸には入らずに待機していたと伝わっている。
■松平元康の最初の試練が訪れる
雨の降りしきる戦場から、松平元康は家臣たちを置いて逃亡しようとしていた。
さかのぼること4年前の1556(弘治2)年の駿府。元康は同国の太守・今川義元(いまがわよしもと/野村萬斎)に服属し、人質生活を送っていた。木彫りの玩具で遊んだり、関口氏純(せきぐちうじずみ/渡部篤郎)の娘・瀬名(せな/有村架純)と親しくしたりするなど、およそ武士の勇猛さとは無縁の青年だった。
そんなある日、元康は幼い頃に離れた故郷である、三河の岡崎に父の法要のため帰国することになった。元康が見た三河国岡崎は、自身が人質生活を送る駿府(すんぷ)に比べ貧しかった。領国で上がる収穫のほとんどを今川家に納めているからだ。家臣たちは皆、みすぼらしい姿をしており、どの顔にもなじみがない。元康は自分の故国という実感が持てなかった。
三河国の将来を託されるという重圧に思い悩む元康だったが、やがて瀬名と結婚。竹千代(たけちよ)という子宝にも恵まれた。
1560(永禄3)年、尾張の織田信長(おだのぶなが/岡田准一)は、今川領の最前線である大高城(おおだかじょう)の周囲に無数の砦を築き、攻撃を加えていた。陥落寸前の大高城を救い出すため、今川軍は太守の義元自らが指揮を執り、出陣。元康は、大高城に兵糧を運び込む役割を与えられた。
ところが、米を運ぶだけと思い込んでいた元康は、織田方の砦を攻め落とさなければ兵糧入れのできない現実を知る。愕然(がくぜん)とする元康だったが、義元から黄金に光る具足(ぐそく)を拝領して奮起。一気呵成(いっきかせい)に砦を抜け、無事に兵糧を城へ届けたのだった。
城代を務めていた鵜殿長照(うどのながてる/野間口徹)と交替し、義元の来着を待つ元康だったが、そこへ「義元討死」の知らせが届くと、戦勝気分も一変。いつ来るとも知れぬ織田軍への恐怖から、元康は城から一人、逃げ出した。
家臣の本多忠勝(ほんだただかつ/山田裕貴)の手荒な説得もあって浜辺まで逃げ出していた元康は城に戻る。ところがそこへ、義元の首を手にした織田信長が2000の兵を率いて向かっていたのだった。
■大高城の兵糧入れは家康の発案で進められた
1560(永禄3)年の桶狭間の戦いは、徳川家康(とくがわいえやす)にとって大きな分岐点となる戦いだった。
この戦いで今川方として参陣した家康の軍勢は、およそ1000あまり(『朝野旧聞褒藁』)。今川義元に命じられた家康の役割は、今川方の大高城と鳴海城(なるみじょう)の連絡を遮断する、丸根砦(まるねとりで)の攻略だった。
「丸根の城を責干すべき」(『伊束法師物語』)との命を受けた家康は、兵を小荷駄(こにだ)隊と別働(べつどう)隊と二手に分け、砦から突出してきた佐久間盛重(さくまもりしげ)らを討ち取り(あるいは盛重は逃亡したともいう)、その間に兵糧(ひょうろう)入れを成し遂げている(『三河物語』)。
この局面において、家臣の酒井正親(さかいまさちか)や石川数正(いしかわかずまさ)らは家康の出陣に反対していた。いったい、どのように兵糧入れをするつもりなのか、と聞かれると、家康は笑ってこう答えたという。
「ただ大高に兵糧を入れることのみ思えば、丸根、鷲津その他の城兵共、みな大高に馳せ参じ妨げようとするだろう。ゆえに両城に押し寄せ敵兵を謀り欺き城外へ誘い出し、その隙に乗じて糧を入れるのだ」(『徳川実紀』)。
家臣たちは感嘆し、見事に成功させた家康を「末頼もしいことだ」と感心したという(『徳川実紀』)。
この勝利で大高城の危機を救った家康は、義元より「西三河は御旧領であるから御心のままに攻め取り給え」との言葉を受け取り、寺部、梅坪、広瀬など、次々に城を攻め落としている。
ところが、その後、織田信長に今川義元が討ち取られた、との知らせが届く。総大将の義元の討死に動揺した今川軍は総崩れとなるが、この報に触れても家康は、「いささかもあはて給わず」(『徳川実紀』)動じることがなかったという。
しきりと動揺する劇中の元康と違い、史料に残される家康の姿は、神君の顕彰のためか威風堂々たるものが多い。
いずれにせよ、この後、家康は10年以上にわたって続けてきた人質生活を逃れ、戦国武将として大きな飛躍を遂げることとなる。