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権力と劣等感を抱えていた「後鳥羽上皇」

後鳥羽上皇と京の人々④


11月20日(日)放送の『鎌倉殿の13人』第44回「審判の日」では、源実朝(みなもとのさねとも/柿澤勇人)や北条氏に憎悪を募らせる公暁(こうぎょう/寛一郎)の姿が描かれた。公暁の胸の内を知ることになった実朝は公暁に懺悔し、ともに執権・北条義時(ほうじょうよしとき/小栗旬)に対抗することを持ちかけた。


大阪府島本町にある水無瀬神宮。後鳥羽上皇が建設した離宮(別荘)跡地に建てられた神社で、上皇はこの地で行なわれた蹴鞠の会で2000回以上という記録を打ち立てたといわれている。

公暁の復讐が実朝の身に迫る

 

 公暁は鎌倉殿・源実朝を討ち、次の鎌倉殿の座を奪う決意を固めた。公暁の乳母夫を務めていた三浦義村(みうらよしむら/山本耕史)は、一族をあげて後押しする構えだ。決行は建保71219)年127日。実朝の右大臣任官を祝う拝賀式の行なわれる日に襲うという。

 

 三浦の館での不審な動きを察知した北条泰時(やすとき/坂口健太郎)は、父の北条義時に相談。二人は義村を訪ねて問い詰めるが、一笑に付された。しかし義時は、長年の友である義村の嘘を見抜く。

 

 そんななか義時は、いずれ御所を京に移すという計画を実朝から打ち明けられた。初代鎌倉殿である源頼朝の築き上げた鎌倉を捨てるというのは、頼朝に鎌倉を託された義時にとって、許しがたい暴挙であった。

 

実朝の周囲に迫る危険に、泰時は警固の増員を主張する。しかし、義時は不要と一蹴した。すでに義時の心底には、実朝を護らなければならないという気持ちが失せていた。

 

 一方、実朝は公暁が次期鎌倉殿にこだわる真の理由を知った。兄の源頼家は病で亡くなったのではなく、北条氏の闇討ちにより殺されたという。北条氏にとって御しやすい実朝を3代目の鎌倉殿に就任させるためだ。頼家の子である公暁に憎まれて当然だ、と実朝は思い知った。実朝は公暁のもとへ向かい、土下座して詫びた。

 

 公暁は実朝が憎いのではなく、北条を討ち果たし、父の無念を晴らしたいと応える。その思いに実朝は賛同し、「鎌倉を源氏の手に取り戻そう」と手を取って打倒北条を誓い合った。しかし、去りゆく実朝の背中に向かって公暁は「だまされるものか……」とつぶやく。

 

 こうして、雪がしんしんと降り積もるなか、拝賀の式典が始まった。

 

刀剣に対する異常な執着心を見せる

 

 北条義時の最後の敵として立ちはだかる後鳥羽上皇は、治承41180)年に高倉天皇の第4皇子として生まれた。

 

 同年は奇しくも、以仁王(もちひとおう)が打倒平氏を掲げ、全国の武士らに挙兵を呼びかけた年である。このなかで、伊豆に流されていた源頼朝も決起している。

 

 寿永21183)年に頼朝の軍勢に押された平氏が京から逃れると、祖父の後白河法皇の詔によって践祚(せんそ)。わずか4歳で第82代天皇の座についた。平氏によって三種の神器が持ち去られていたために、神器なき異例の践祚となったことが、後鳥羽天皇に暗い影を落とすことになる。

 

 文治元(1185)年に平氏が壇ノ浦(だんのうら)で滅亡すると、頼朝は武家による政権である鎌倉幕府を開幕した。

 

 建久元(1190)年に後鳥羽天皇は元服。2年後に後白河法皇が亡くなると、朝廷内の実質的な権力者として九条兼実(くじょうかねざね)が君臨する。兼実の反対勢力として対立していた源通親(みなもとのみちちか)は、建久61195)年に養女の在子が後鳥羽天皇の子である為仁(ためひと)皇子を生んだことで形勢を逆転させ、翌建久71196)年に兼実を追放した。

 

 建久91198)年に後鳥羽天皇は為仁皇子に譲位。上皇となり、院政を開始する。後鳥羽上皇の院政は、この年から承久31221)年まで行なわれることとなる。

 

 建仁21202)年に通親が亡くなると、後鳥羽上皇の独裁色が強まり、さまざまな朝廷改革が行なわれた。

 

 貴族間の派閥的な対立を解消させることに努め、西日本の武士を中心として組織した西面の武士を直轄軍として手元に置いた。そして武家が立てた鎌倉幕府にも一定の理解を示し、当時の将軍である源実朝と良好な関係を築いた。治天の君として、揺るぎない立場を確立していったのである。

 

 一方で、神器のないまま即位した天皇としての劣等感に悩まされていたと考えられている。

 

 三種の神器とは、代々の天皇が継承する3つの宝物のことで、八咫鏡(やたのかがみ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)を指す。

 

 平氏の滅亡後、かろうじて鏡と勾玉は発見されたものの、剣のみはいかに捜索しても見つからなかった。天皇の正統性を示す神器の不在に、世間では世の中が混迷するのは神剣が海に没したままだからだ、などと囁き(『明月記』)、壇ノ浦の戦いから約30年後となる建暦21212)年にも、後鳥羽上皇が剣の探索を命じていた記録が残っている(『如願法師集』)。

 

 そんななか、後鳥羽上皇は刀剣を打つことに熱中した。腕の立つ刀工(とうこう)を全国から呼び寄せて毎月作刀にあたらせる御番鍛冶(ごばんかじ)という制度を設けている。のみならず、自らも積極的に作刀に取り組んでおり、上皇が鍛錬した刀は「菊御作(きくごさく)」と呼ばれ、現存している。

 

 刀剣に対する関心の高さは、和歌や蹴鞠、琵琶、相撲や水連など文武問わず多種多芸な上皇の性質のひとつとも受け取れる。しかし一方で、剣が武力の象徴でもあることから、絶対的な権力者として武家政権への対抗心の現れであるとの見方や、神剣なき天皇としての劣等感だったとする見方もある。

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過去記事

小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。著書に『なぜ家康の家臣団は最強組織になったのか 徳川幕府に学ぶ絶対勝てる組織論』(竹書房新書)、執筆協力『キッズペディア 歴史館』(小学館/2020)などがある。

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