朝廷屈指の女性政治家だった「藤原兼子」
後鳥羽上皇と京の人々③
11月13日(日)放送の『鎌倉殿の13人』第43回「資格と死角」では、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう/尾上松也)との結びつきをますます強めようとする源実朝(みなもとのさねとも/柿澤勇人)の姿が描かれた。善政を目指す実朝とは対照的に、自身の運命に翻弄される公暁(こうぎょう/寛一郎)は、父親譲りの野心をむき出しにしながら権力者たちへの怒りを募らせていた。

那智大社と那智の滝。熊野詣の対象のひとつである、和歌山県那智勝浦町に鎮座する熊野那智大社と那智の滝。北条政子は弟の北条時房を伴って、熊野を二度参詣している。二度目の参詣の際に藤原兼子と会談した。
後継をめぐるそれぞれの思惑が交錯する
鶴岡八幡宮の別当となった公暁が、京から鎌倉へ戻ってきた。その胸には、還俗して次期鎌倉殿に就任するという野望があった。
ところが、現・鎌倉殿の源実朝は、京から養子を招き、後継者に据えることを考えている。つまり、継承の資格がありながら、公暁は鎌倉殿に就くことができない。寝耳に水の公暁は、実朝の前では平静を装ったものの、乳母夫である三浦義村(みうらよしむら/山本耕史)には怒りをあらわにした。
実朝の計画には、執権・北条義時(ほうじょうよしとき/小栗旬)や実朝の乳母である実衣(みい/宮澤エマ)も反対だ。計画を後押しする尼御台(あまみだい)・北条政子(まさこ/小池栄子)は、一刻も早い鎌倉殿継承のため上洛して交渉するなど、協力を惜しまない。
京での政子の巧みな談判により、実朝の養子は後鳥羽上皇の子である頼仁親王に決まった。文句なく高貴な血筋のため、義時らも表立って反対することができない。実朝は親王の後見として左大将に任じられた。官職としては、父である源頼朝を超えたことになる。これに伴い、政子は従三位に叙せられた。
朝廷と鎌倉の橋渡し役を自認する源仲章(みなもとのなかあきら/生田斗真)は、思い通りに事が運ぶことに、思わず顔がほころぶ。義時にも隠居を勧める始末だ。
一方、次期鎌倉殿の道を完全に絶たれた公暁の怒りは募るばかり。加えて、公暁は義村から思いがけない事実を知らされる。病死と聞かされていた公暁の父である2代鎌倉殿・源頼家(よりいえ)は、北条氏によって殺された、と打ち明けられたのだ。
「北条を許すな」
かつて、比企尼(ひきのあま/草笛光子)が呪詛(じゅそ)のように吹き込んだ言葉が公暁の脳裏に蘇った。
後鳥羽上皇の院政を後ろ盾に権勢を振るう
藤原兼子(ふじわらのかねこ)は久寿2(1155)年に刑部卿・藤原範兼(ふじわらののりかね)の娘として生まれた。
父の死後、叔父にあたる藤原範季(のりすえ)のもとで育てられた。当時の範季は、範兼の養子になっていたという。
範季が後鳥羽天皇の養育係を務めていた関係で、兼子はまもなくして天皇の乳母となる。
後鳥羽天皇の絶大な信頼を得て、正治元(1199)年には典侍(てんじ)に任命される。典侍とは、天皇付の女官のことで、なかでも最高位に位置する役職。乳母を務めていたことから、兼子は後鳥羽天皇から重用されたようだ。
やがて、後鳥羽天皇が上皇となり、朝廷内で独裁色を強めると、兼子の権威も自然と高まった。兼子は上皇の側近として、政治的な案件を左右する立場にもあったようだ。その威勢は「権門女房」と評されていたという(『明月記』)。意味は、特権を有する高貴な女性、といったところだ。
3代将軍・源実朝の妻に、養女としていた坊門信清(ぼうもんのぶきよ)の娘を推薦したのは兼子だったといわれている。兼子には、鎌倉幕府内に朝廷の息のかかった者を送り込み、発言権を強めておきたいという狙いがあったらしい。
また、建保6(1218)年に実朝の後継者問題で尼御台の北条政子が上洛した際、自身の養育していた頼仁親王(よりひとしんのう)を推薦したのも、同様の理由と見られている。なお、この年に政子は異例の従三位、従二位に昇っているが、兼子の後押しが背景にあったとされている。
天台宗の僧侶である慈円(じえん)が書き記した『愚管抄』では、朝廷に兼子、鎌倉に政子、という東西の女性2人が権勢を振るう様を「女人入眼(にょにんじゅげん)の日本国」と評している。その意味するところは、「日本国を取り仕切っているのは女性である」といったところだ。
歴史の放つ光が兼子を照らすのはこの辺りまで。翌建保7(1219)年に鎌倉で起こった大事件が、兼子ひいては後鳥羽上皇の運命を狂わせていく。
晩年の兼子はすっかり権勢が衰え、不遇の余生を送った。失意のうちに病没したのは、75歳の時のことだった。