朝廷と幕府の間を行き来した「源仲章」
後鳥羽上皇と京の人々①
10月16日(日)放送の『鎌倉殿の13人』第39回「穏やかな一日」では、鎌倉の政の仕組みを改めようとする北条義時(ほうじょうよしとき/小栗旬)の姿が描かれた。強権を振るう義時に対し、不満を持つ御家人が現れる一方、3代鎌倉殿である源実朝(みなもとのさねとも/柿澤勇人)は一人、誰にも打ち明けられない悩みに苦悶していた。
御家人に不満を募らせた義時の急進的な改革

公暁によって源実朝が暗殺される場面。『愚管抄』によると、近臣であった源仲章は実朝とともに殺害されたとするが、諸説あり、真相は曖昧である。(国立国会図書館蔵)
病状に伏せていた3代鎌倉殿・源実朝が、政務に復帰した。しかし、重要な決定はすべて北条義時が裁く体制が整えられつつある。義時は、政の仕組みを改めようと意気込んでおり、政権の主導権のほとんどを手中にしていた。その狙いは、わずかな御家人に力が偏ってしまうのを防ぐこと。手始めに守護の交代制を打ち出した。
仕組みを改めるとはいうものの、国司は北条氏が独占したまま。恣意的に過ぎる人事に、少なからぬ御家人たちが不満を抱えていた。
そのうちの一人、和田義盛(わだよしもり/横田栄司)は、実朝に内々に懇願していた上総介(かずさのすけ)就任を義時によって反故にされたことに納得がいかない。
一方で、北条氏に長年仕えてきた平盛綱(たいらのもりつな/きづき)を郎党から御家人に取り立てるという義時の決定に、実朝は反対することができなかった。義時は、自身のやることに口を挟まず、見守ってくれればよい、と実朝に釘を刺す。実朝は、凄む義時に対し、不安と怯えを抱いた。
建暦元年(1211)9月22日。2代将軍・源頼家(みなもとのよりいえ)の子であり、実朝の猶子(ゆうし)となっていた善哉(ぜんざい)が公暁(こうぎょう/寛一郎)と名を改め、京に上ることとなった。園城寺(えんじょうじ)で僧侶としての修行をするためだ。
後に災いの種となる人物を、義時や尼御台・北条政子(ほうじょうまさこ/小池栄子)らが見送った。
特殊な立場のまま昇進を繰り返した謎の人物
源仲章(みなもとのなかあきら)は、源光遠(みなもとのみつとお)の子として生まれた。光遠は後白河法皇に近臣として仕えた人物。仲章の生年は分かっていないが、兄に源仲国、弟に源仲兼がいる。第59代宇多天皇の皇子を始祖とする宇多源氏の系統とされる。
三兄弟とも後鳥羽上皇の近習を務めるが、仲章は早くから、京にいながら鎌倉幕府の御家人も兼務している。なぜ仲章がこのような特殊な立場となったのかは定かではない。一説によれば、仲章の父である光遠が伊豆守に任じられた縁で、鎌倉と何らかの関係が生まれたとするが、真相は分からない。
なお、京に滞在する御家人としての仲章の役割は、盗賊など犯罪者の取り締まりだったらしい。
建仁3年(1203)に、源実朝が3代将軍となった前後に鎌倉へ下ったと見られている。鎌倉幕府公式の歴史書『吾妻鏡』には、建仁4年正月に「相摸權守御侍讀を爲す」とあるのが、仲章にまつわる初めての記述だ。仲章が侍読(じとう)という役職に就いたという意味である。
侍読とは天皇や主君に対して学問を教える役。つまり、仲章は実朝の教育係を務めた。鎌倉には学問に秀でた者がいなかったからのようだ。
学者としての実績はあまり見られないものの、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて歌人として名を馳せた藤原定家(ふじわらのていか)は、仲章を「才名の誉れこそないが、百家九流に通じている」と評したという。仲章は相当な博識だったようだ。
将軍の御所近くに屋敷を拝領するほど、実朝から信頼を得た。その傍ら、しばしば上洛して後鳥羽上皇に鎌倉の様子を伝えている。その間、相模権守から弾正大弼、大学頭へと急速に昇進。幕府の推薦という形で、文章博士にまで上り詰めた。
鎌倉幕府内では執権・北条義時と同等あるいは上席となるほどの出世を果たしている。このことから、仲章は朝廷と鎌倉の二重スパイだったのではないか、とする説もある。
仲章は父の代から天皇の近臣として仕えてきた、いわゆる上級貴族の家系だ。政治も学問も、一流のものが身についていたとしても不思議ではない。
一方、鎌倉には同じく京から下向してきた大江広元(おおえひろもと)という官僚がいる。広元はもともと下級貴族の身分。京にいてはろくな出世が見込めないことから、鎌倉へやってきた人物だ。
そんな自分の頭越しに、京からやってきた人物が将軍・実朝から絶大な信頼を得ることとなったのに、義時や広元が少なからず反感を覚えたことはあったかもしれない。
いずれにせよ、鎌倉で実朝の信任を得て、なおかつ後鳥羽上皇の近臣だった仲章の最期は、鎌倉幕府と朝廷に、大きな波紋を生じさせたに違いない。