義時体制を決定付けた「牧の方事件」
頼朝亡き後の謀反・抗争を巡る謎⑧
10月2日(日)放送の『鎌倉殿の13人』第38回「時を継ぐ者」では、執権として権力をほしいままにしてきた北条時政(ほうじょうときまさ/坂東彌十郎)の失脚する様子が描かれた。死罪は免れたものの、その結末は、北条義時(よしとき/小栗旬)にとっては、父との今生の別れという悲しいものとなった。

静岡県伊豆の国市にある北条時政の墓。失脚した時政と同時に出家した者が続出したが、彼らは陰謀や密談に加わった人物たちだろうと噂された(『北条九代記』)という
鎌倉幕府創設の立役者・時政の失脚
執権・北条時政は、自邸に拉致した3代目鎌倉殿・源実朝(みなもとのさねとも/柿澤勇人)に出家を迫ったものの、頑なに拒まれた。望みが叶わぬと見た時政は、妻のりく(宮沢りえ)を邸宅から逃し、実朝を釈放した。自身は死を覚悟して立てこもりを続けるつもりだ。
時政邸を取り囲む北条義時は、謀反を企てた父・時政に対し、厳しい処分を主張した。周囲の反対にもかかわらず、時政の首を獲ることすら辞さない義時だったが、実朝や大江広元(おおえひろもと/栗原英雄)ら文官の取りなしにより撤回。捕縛された時政・りく夫妻は、伊豆へ追放という処分となった。敬愛する父に会うことは、もう二度とない。処分を伝える際、義時は父の前で子どものように泣きじゃくったのだった。
実朝を出家させ、平賀朝雅(ひらがともまさ/山中崇)を4代目鎌倉殿に据えるという計画はこれでご破産となった。義時は名の挙がった朝雅にも謀反の嫌疑をかけ、京の御家人に命じて誅殺。一連の騒動に決着をつけた。
こうして初代執権・時政は失脚。2代目執権は義時が継ぐことになった。
一方、京の後鳥羽上皇(尾上松也)は、自身の近臣である朝雅を勝手に殺されたことに激怒。命令を下した、新たな鎌倉の権力者「北条義時」の名が、上皇の脳裏に深く刻まれたのだった。
骨肉の争いとなった権力闘争の果て
牧の方(ドラマではりく)を中心に起こった一連の事件は、「牧の方事件」「牧氏の変」などと呼ばれる。
鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』によれば、事の発端は北条義時の妹・阿波局(ドラマでは実衣)が姉の北条政子(ほうじょうまさこ)に牧の方にまつわる懸念を伝えたことだ。
重臣・比企能員(ひきよしかず)の暗殺直後、まだ年若い源実朝は、乳母である阿波局の手を離れ、北条時政邸で牧の方によって養育されることになった。おそらく幼き実朝を手懐けておこうという策略と考えられるが、これに対し、阿波局は「(牧の方は)何かにつけて害心が含まれており、心配である」と政子に伝えている。政子もこれに同意。その身柄を時政から取り戻し、実朝が成人するまで政子のもとで預かることになったという。
これは「牧の方事件」の序章というべき逸話だが、後の事件の首謀者が牧の方であることを強調するための伏線とも見られており、必ずしも真実とは見られていないようだ。
しかし、実朝をめぐって北条政子・義時の姉弟陣営と、北条時政・牧の方夫妻の陣営とで対立していたことは間違いない。
それから約2年後の元久2年(1205)、「牧の御方奸謀を廻らす」との噂が鎌倉中を駆け巡り、事件の幕が上がった。噂の内容は、実朝を抹殺し、平賀朝雅を次期将軍に擁立するというもの。噂が出た当日に、政子は実朝を義時邸に避難させている。
この時、時政が兵として集めた御家人らが揃いに揃って義時の陣営に与したため、時政は観念してその日のうちに出家したという(『吾妻鏡』)。
時政が自発的に出家し、伊豆に下向したと『吾妻鏡』が記す一方、歌人・藤原定家(ふじわらのていか)の日記である『明月記』では、時政は伊豆に幽閉されたとする。
追放された時政夫婦が伊豆でどのような暮らしをしたのかは伝わっていない。分かっていることといえば、事件から10年後の建保3年(1215)に持病の腫れ物を悪化させて70代後半という長寿を全うして時政が死んだことだけだ。
寵愛する悪妻に振り回される時政、との構図で描かれることが多い夫婦だが、実際のところはどうだったのか。
自身の孫に当たる源頼家の殺害を命令し、ひ孫の一幡(いちまん)を消して権力の保持に執着。擁立した同じく孫の実朝の暗殺も計画し、最終的には前妻との間にできた子・政子や義時に権力の座を奪われるのを恐れて対立した。これらをすべてそそのかしたとして牧の方は悪女とされるが、そう簡単に片付けられる話ではなさそうだ。『吾妻鏡』は北条氏に都合がよい描写が数々指摘されているし、こうした抗争に時政が前のめりになっていた可能性は十分に考えられる。
また、若い牧の方が娘婿の平賀朝雅との間に男女の関係があったのではないか、と勘ぐる研究者もいる。いわく、すでに齢70前後だった時政よりも、壮年の朝雅の魅力に取り憑かれ、彼を将軍に擁立しようと考えた、とする。
牧の方は時政の死後、朝雅の妻だった自身の娘が公家と再婚すると、娘夫婦を頼って京に移り、贅沢三昧の日々を過ごしたという。
しかし、一方で朝雅擁立の実現の度合いに疑問もある。血筋としては同じ源氏とはいえ、源頼朝の河内源氏の流れではなく、信濃源氏の系統である朝雅が将軍を継ぐという計画にどれだけの賛同が得られるかは未知数だ。
そのため、時政の謀反とされる牧の方事件は、権力奪取を企図した政子・義時による陰謀で、さもありそうな朝雅擁立という計画をでっち上げた。次々に実力者を排除していった鎌倉にあって、このような風聞を立てられては対抗できない。時政が素直に出家に応じたのは罪を認めたのではなく、これ以上はどうにもならないという、諦めの境地に近かったのではないか、と推測する向きもある。
いずれにせよ、この事件以後、幕政の中心人物となっていくのは義時だ。ただし、『吾妻鏡』やドラマで描かれたように、時政の失脚後、すぐさま二代目執権を襲名したわけではない。あくまで実朝や政子の政治を陰ながら支えるという姿勢をしばらく保ちながら、徐々に自身の足元を固めていく、というやり方で幕政に参加したようだ。
これは、性急な権力集中であっという間に失脚した時政の失敗を反面教師として、周囲の理解を得ながら少しずつ権力を自身の手に集約していく、という深謀遠慮の策だったようである。
なお、牧の方は嘉禄3年(1227)、京で時政の十三回忌の供養を行なっている(『明月記』)。悪女とばかり糾弾される彼女の知られざる横顔といえよう。