「悪将軍」と揶揄された源頼家の暗殺
頼朝亡き後の謀反・抗争を巡る謎⑤
8月28日(日)放送の『鎌倉殿の13人』第33回「修善寺」では、北条時政(ほうじょうときまさ/坂東彌十郎)による新たな体制が本格的に始動した。しかし、強引な権力移譲に対し、御家人たちからの反発もくすぶる。目下の懸念は、鎌倉への憎悪をむき出しにする、前鎌倉殿である源頼家(みなもとのよりいえ/金子大地)の存在だった。
■北条氏主導の新たな体制が始まる

静岡県伊豆市にある修善寺の山門。頼家の死から数日後に頼家の家人たちが謀反を企てたが、義時の配下に鎮圧されている。
3代将軍・源実朝(みなもとのさねとも/嶺岸煌桜)による政権がいよいよ始まった。補佐役には、執権別当の北条時政が当たることになる。事実上、北条氏による政権支配の体制が固まった。
事あるごとに時政に入れ知恵する妻のりく(宮沢りえ)は、実朝の正室を京から招き、さらに北条支配を強めようと、あれこれと指図する。
一方、伊豆の修善寺に幽閉された前将軍・源頼家は“真の鎌倉殿”は自身であることを公言してはばからない。それどころか、鎌倉への憎悪を隠そうともしなかった。最も恨めしく思っている北条一族の者との面会も、頑なに拒絶する。
不測の事態に備え、警固の強化を指示する北条義時(ほうじょうよしとき/小栗旬)だったが、頼家が後鳥羽上皇(ごとばじょうこう/尾上松也)に北条氏追討の院宣(いんぜん)を願い出ていたことが発覚すると、態度を変えた。様子見の方針を転換し、頼家を討ち取ることを決意したのである。
義時の命を受けて修善寺に送り込まれた善児(ぜんじ/梶原善)は、一瞬のスキを突かれて頼家に斬られ、暗殺に失敗。代わりに頼家にとどめを刺したのは、善児の弟子・トウ(山本千尋)だった。
さらにトウは、虫の息だった善児を刺し殺す。善児に両親を殺された過去があるトウは、長年の恨みを晴らしたのだった。
■あまりに凄惨だった源氏嫡流の最期
鎌倉幕府の公式記録とされる『吾妻鏡』には、2代鎌倉殿・源頼家の将軍らしからぬ行動が記されている。
例えば、政治そっちのけで側近たちと蹴鞠に明け暮れていたこと。領土を巡る争いに「運次第」と吐き捨て、無造作に中央に線を引いて認めさせたこと。
江戸時代に刊行された『北条九代記』には、「わがままのし放題」で、「色にふけり、酒に親しみ、あるいは物見遊山・釣りと狩りとに毎日を送り、また技芸・俗芸に夜を明かしてうつつをぬかされた」とさんざんに書かれている。
さらに、祖父にあたる北条時政を「時政」と呼び捨てにしていたらしい。当時としては大変な非礼に当たる行為で、母の北条政子もさすがに叱責したとの逸話が残されている。
こうした数々の奇行も、どこまで真実を伝えるものかは定かではない。頼家から政権を奪った形になった北条氏側からの視点で考えれば、頼家を好意的に描くことは決して良策ではないからだ。
幾分かの真実が混じっていたとしても、頼家の立場になってみれば、偉大な父・源頼朝(みなもとのよりとも)に負けぬよう、将軍の権力を最大限に強めていこうとしたのかもしれない。そんな頼家の若気の至りや気負いといったものが人々の誤解を招くこともあっただろう。事実、例えば蹴鞠は単なる遊びではなく、朝廷との交渉を円滑に進めるための芸事だったとする見方もある。
いずれにせよ、鎌倉殿の座から強引に引きずり降ろされた頼家は、修善寺で幽閉生活を送ることとなる。
ドラマに描かれていた「近習を寄越してほしい」「安達景盛(あだちかげもり)を処罰したい」とする書状は、幽閉されてから約1か月後の11月に出されたものだが、いずれの要望も却下された。それどころか、以後、書状を出すことさえ禁じられたという。
そんななか、元久元年(1204)7月19日、頼家が修善寺で死去した報が鎌倉にもたらされた。
『吾妻鏡』には、頼家が亡くなったとの知らせが修善寺から届いた、とそっけなく記すのみで、詳細は分からない。
ところが、天台宗の座主も務めた慈円(じえん)による記録『愚管抄』によると、頼家の最期は次のように記されている。
「頸ニヲ(緒)ヲツケ。フグリ(睾丸)ヲ取ナドシテコロシテケリト聞ヘキ」
つまり、首に緒を付け、局部を切り取って無力化させて殺した。おそらく、刺客がなかなか殺すことのできないほど、頼家が武芸の達人だったため、暴れ回れないように締め付けた上で局部を切り落とし、苦悶しているところを殺したのだと考えられる。実に生々しい描写で、凄惨な殺し方だったことがうかがえる。
『北条九代記』には、実朝と時政が相談して修善寺に刺客を送り込み、入浴中の頼家を刺殺した、とある。あえて丸腰の時を狙ったのは、やはり頼家の高い戦闘力を恐れたため、とも考えられる。
「悪将軍」という汚名を着せられながら、素顔がまったく分からない源氏の2代将軍・源頼家。彼もまた、北条氏をはじめとした鎌倉幕府の激しい権力抗争に巻き込まれた、哀れな被害者だったのかもしれない。