2代頼家の妻妾・若狭局はなぜ「蛇」として祟り出たのか?
鬼滅の戦史91
局部を掴み取られて悶絶死したと言われる源頼家(みなもとのよりいえ)。その妻妾(さいしょう)である若狭局(わかさのつぼね)もまた、我が子・一幡(いちまん)とともに非業の死を遂げている。それから60年後のこと、突如北条氏の娘に取り憑(つ)いたといわれている。それはどのような状況だったのだろうか?
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頼家の妻妾・若狭局『武者かゞ美 一名人相合 南伝二』一猛斎芳虎筆/国立国会図書館蔵
非業の死を遂げた頼家の妻妾
第86回(『局部を掴み取られて悶絶死したという源頼家の祟りとは?』)に紹介した頼朝の嫡男・頼家の記事では、壮絶な死の情景を記した。実のところ、その妻妾・若狭局もまた、子・一幡ともども焼死あるいは斬殺という、非業の死を遂げたことが知られている。当然のことながら、恨み骨髄(こつずい)の彼女もまた化けて出たことはいうまでもない。その詳細は後ほど語ることとして、まずは彼女がどのような女性であったかのかについて、見ていくことにしたい。
父は比企能員(ひきよしかず)。頼朝の乳母・比企尼(ひきのあま)の甥で、早くから頼朝の側近として仕え、13人の合議制の一人に加えられた有力御家人である。そればかりか、頼朝の嫡男・頼家の乳母父にも選ばれ、その娘・若狭局が頼家の妻妾となって嫡男・一幡を産んでいる。
一幡は頼朝にとっての初孫とあって、将来をも嘱望された存在であったことはいうまでもない。ともあれ、若狭局にとって、ここまでは順風満帆というべきか。
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一幡のものとされる小袖を埋めたとされる袖塚がある妙本寺/フォトライブラリー
比企氏と北条氏の権力闘争の犠牲に
ところが、一幡誕生で危機感を覚え始めたのが北条氏であった。一幡が鎌倉殿を継げば、比企一族の勢力が拡大する訳で、ひいては北条氏の権力低下を意味することになるからだ。もちろん、北条時政(ときまさ)が手を拱いて黙っているわけがなかった。
まずは能員を仏事に言寄せ、自宅に招き寄せたところを殺害。それを手始めとして、比企一族を皆殺しにしてしまったのである。歴史書『吾妻鏡』によれば、北条氏に攻め込まれて屋敷が炎に包まれる中、一幡までも焼死したことが記されている。
一方、僧・慈円(じえん)が著した『愚管抄』によれば、二人は屋敷を抜け出したものの、2カ月後の11月3日に見つかって刺し殺されたことになっている。何れにしても、北条氏の手によって、母子共々、殺されたことに変わりない。
夫・頼家が残酷な死に至り恨み骨髄に達していたことは間違いないが、その妻妾・若狭局も、我が子を道づれに死ななければならなかっただけに、その悔しさや想像を絶するものがありそうだ。
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5代後の7代執権・政村の娘に取り憑いた霊を供養した蛇苦止堂
60年も後に北条氏の娘に取り憑く
勿論のこと、彼女は、化けて出た。ただし、それは彼女の死から60年近くも過ぎた頃のことで、しかも、自身を死に追いやった当の本人ではなく、その5代も後の7代執権・政村(まさむら)の娘に取り憑いたというから、なんとも不思議である。
この辺り、なぜかはわからないが、これまでの例を見ても、祟(たた)りはすぐには起きず、数年後あるいは数十年後に突如表面化する、そういうことが、往々にしてあった。
では、若狭局がどのようにして化けて出たのだろうか?
前述したように、彼女の霊が政村の娘に取り憑いたことで、娘が1ヶ月もの間、錯乱状態に陥ったというのだ。症状は、蛇のように体をくねらせ、舌で唇を舐め回すというおぞましいものであった。
それにしても、それがなぜ若狭局(ここでは讃岐局の名で登場)の怨霊とみなされたのか、またその症状がなぜ蛇のようであったのかという疑問が湧くが、この辺りの理由は明記されることはなかった。ただ、彼女の死に至る状況を振り返ってみれば、推察できなくもない。
というのも、彼女が北条氏に攻め込まれて屋敷が炎に包まれた際、屋敷内にあった井戸に身を投じて亡くなったとも伝えられているからである。それが、妙本寺(鎌倉市)内にある蛇苦止(じゃくし)の井と呼ばれる井戸だったというから、水の神とされる蛇が関わってくるのもおかしくないのだ。
一説によれば、この井戸と同市名越(北条時政の屋敷があった)にある六方の井が繋がっているとも。その2つの井戸を、今も大蛇が行き来していると、まことしやかに語られることがあるのだ。
ともあれ、鶴岡八幡宮の別当・隆弁(りゅうべん)が説法を繰り返すことで、娘に取り憑いた霊が鎮まり、眠りから覚めたかのように元に戻ったという。
後に、その霊が再び躍り出てこないよう、妙本寺内に蛇苦止堂(じゃくしどう)が建てられて、蛇苦止明神を祀ったのだとか。以後は、むしろ比企氏の守り神として祀られるようになったのだとも。また、同寺院の境内には、比企一族の墓とともに、一幡のものとされる小袖を埋めたとされる袖塚もあり、比企一族を偲ぶ史跡としても注目されるところである。