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大江広元は頼家の代に「陰陽師」を招聘していた?

鬼滅の戦史89


坂東武者が闊歩(かっぽ)した鎌倉幕府の中では、異質ともいえる存在だった文官・大江広元(おおえのひろもと)。しかしながら、その官位は執権・北条義時よりも高く、悪霊退治ばかりか施政にまで影響を及ぼす陰陽師(おんみょうじ)の采配にまで関わっていたと言われる。そればかりか、兵法の達人であったとも言われるが、それはなぜなのだろうか?


明王院の山門から金沢街道に出た明石橋近くにある大江広元邸宅跡の史跡碑。

悪霊退治に活躍した陰陽師たち

 

 怨霊(おんりょう)とは、平たく言えば幽霊の一種。それが、その実在については、はっきり言って誰にもわからない。ただし、現代人の多くは、いないと思いつつも、いるかもしれないから、やっぱり怖い…という辺りが本音だろう。

 

 ただし、中世の人々は、本気でその存在を信じていた。現代のように科学的な証明が為されるまでは、病も天災も不慮の事故も、いずれも怨霊の仕業と見なされていたのだ。

 

 さすがに、坂東武者たちの多くは、怨霊ごときに驚くことは少なかったかもしれないが、京の都に暮らす平安貴族たちはこれを信じた。崇徳(すとく)上皇や井上内親王(いかみないしんのう)、他戸親王(おさべしんのう)、菅原道真(すがわらのみちざね)等々、恨みを抱いたまま亡くなった人たちの霊が、時には悪霊となって祟(たた)りを為すと信じ、恐れおののいていたのである。

 

 それを鎮めるには、神として祭り上げるのが一番。そうすれば、悪霊といえども御霊という鎮護(ちんご)の神に転じさせることができる…と、何とも都合の良い解釈がなされていた。

 

 そればかりか、仏の呪力に頼ってこれを払い除けようとすることも行われた。いわゆる加持祈祷(かじきとう)である。これは主に僧侶が担うものであったが、平安中期以降は、安倍晴明(あべのせいめい)をはじめとする陰陽師が、悪霊退治の担い手として活躍するようになっていったのである。

 

大江広元が鎌倉に陰陽師を招聘

 

 その中心的役割を果たしていたのが、朝廷内に設けられた陰陽寮に所属する官人陰陽師であったが、それを京から鎌倉へと呼び寄せ、幕府内に権門陰陽師として配置したのが、実は大江広元だったといわれることがある。

 

 頼朝の嫡男・頼家が、2代将軍となって以来、盛んに「当年星祭」や「泰山府君祭」といった陰陽道祭祀が催されているが、それを主催したのが朝廷に仕えていた陰陽師の安倍資元で、彼を鎌倉に招聘したのが、大江広元であったという。

 

 大河ドラマ『鎌倉殿と13人』では、俳優・栗原英雄氏による抑揚を極端に抑えた演技が印象的な大江広元であるが、史実としての広元も然り。「情に流されない冷静な人物」だったとか。「成人してから後、涙を流したことがない」とまで記述が残るほどであった。

 

 元は公家だったというが、当然のことながら、荒武者揃いの坂東武者の中にあっては異色の存在。神秘的と言っても良い雰囲気を醸し出していたに違いない。

 

 ただ、実力という面では頼朝の死後は執権である北条時政や義時がそれを凌ぐ者であったことは言うまでもない。

 

 しかし、位階だけを見れば、時政は従五位下、義時は従四位下で、広元の正四位下に及ばない。つまり、朝廷側の視点から見れば、鎌倉家臣団の頂点に君臨するのは北条時政でも義時でもなく、大江広元であった。

 

 それはもちろん、広元が元公家であったということにもよるが、朝廷と幕府のパイプ役として、広元が重要視されていたからに他ならない。

 

 また幕府内において、要職に就くことができた理由は、それだけではなかった。幕府の様々な施策にまで大きな影響を与える陰陽師、その采配に広元が影響力を及ぼすことができたからと考えられるのだ。

 

 そればかりか、戦略家としても優れた才能を有していたことも注目すべきだろう。その能力が最大限に発揮されたのが、後鳥羽上皇が北条義時討伐を名目として挙兵した「承久の乱」である。

 

 討伐軍が箱根辺りにやってくるのを待ち構えて抗戦しようと目論む御家人たちを前に、広元は京に向かって即時出撃を主張。その戦略が功を奏して、結局勝利に繋がった。これは、広元の大手柄であった。

源義家が兵法を学んだとされる大江匡房。『百人一首図絵』田山敬儀筆/国文学研究資料館藏

陰陽道と兵法の達人だった?

 

 そういえばこの御仁、先祖をたどれば、兵法の達人としてその名が知られた大江匡房(おおえまさふさ)へとたどり着く。八幡太郎として勇猛さを称えられた武家の棟梁・源義家の師であったとも言い伝えられている御仁である。義家は「匡房の兵法」を学んだことで、「後三年の役」を勝利に導くことができたとまで言われている。広元が、この曽祖父から「匡房の兵法」を受け継いでいた可能性も、十分に考えられるのだ。

 

 ちなみに、時代小説家・百舌鳥遼氏が著した『鎌倉鬼譚 大江広元残夢抄』によれば、広元は『義経記』に登場する伝説の陰陽師・鬼一法眼(きいちほうげん)から陰陽術を学んだとされている。鬼一法眼といえば、所持していた中国の兵法書『六韜』を義経に奪い取られたことを思い出す。義経が本当に、鬼一法眼から兵法を学んでいたかどうかは定かではないが、伝承を信じれば、広元が陰陽術と兵法を共にマスターしていたとも考えられるのだ。

 

 位階の高さに加えて、陰陽術と兵法を武器に、坂東武者たちを操る大江広元。想像を少し膨らませて伝承の世界に立ち入れば、そんな図式まで見えてくるのである。

源頼朝の先祖・義家。『八幡太郎一代記』/国文学研究資料館藏

 

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藤井勝彦ふじい かつひこ

1955年大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』(天夢人)、『邪馬台国』『三国志合戰事典』『図解三国志』『図解ダーティヒロイン』(新紀元社)、『神々が宿る絶景100』(宝島社)、『写真で見る三国志』『世界遺産 富士山を行く!』『世界の国ぐに ビジュアル事典』(メイツ出版)、『中国の世界遺産』(JTBパブリッシング)など、日本および中国の古代史関連等の書籍を多数出版している。

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