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源頼朝の妹・夜叉御前にまつわる不思議な縁とは?

鬼滅の戦史85


源頼朝には妹がいた。「夜叉御前(やしゃごぜん)」なる少女であるが、父・義朝(よしとも)が殺され、頼朝が捕らえられた後、世を儚んで入水している。そして夜叉御前の母・延寿(えんじゅ)御前の姉にあたる北の方もまた、我が子を殺されて入水した女性であった。北の方は義朝の父・為義の妻妾(さいしょう)であり、3代に関わる縁者2人が入水の道を選んでいるが、この不思議な巡り合わせはどのような経緯で起こったのだろうか?


平治の乱の敗北で逃げる最中、源頼朝は父・義朝と遊女との間に生まれた妹・夜叉御前と出会ったとも伝えられる。『金の船・金の星』(ほるぷ出版)国立国会図書館蔵

 

11歳で入水した夜叉御前の哀しみ

 

 源頼朝に、夜叉御前と呼ばれる妹がいたことをご存知だろうか? 父は頼朝と同じ河内源氏6代目棟梁・義朝であるが、母は違う。頼朝の母が義朝の正妻・由良御前(ゆらごぜん/藤原季範[すえのり]の娘)だったのに対し、夜叉御前の母は延寿御前。美濃国青墓宿の長者・大炊兼遠(内記大夫行遠との説も)の娘で、いわゆる遊女たちを管理する役割を担っていた者の子であった。どのような経緯で、義朝がこの娘と結ばれたのか定かではないが、上洛の途上、当地を行きかううちに、親しくなったのだろう。

 

 ところが義朝は、平治の乱に敗れて逃走。その途上、家人に襲撃されて斬殺されてしまった。次男・朝長(母は波多野義通の妹)も、父と行動を共にしていたが、こちらは、父の死に先んじて負傷。もはやこれ以上動けぬと、逃走することを諦めた朝長自身が、父に頼んで殺してもらっている。「むなもとを三刀さしてくびをかき〜」(胸元を三度刀で刺して首を斬り〜)というから、何とも無残な死に様であった。

 

 父・義朝は、息子の死を見届けた後、さらに敗走。その後、前述のように、配下の縁者・長田忠致(おさだただむね/恩賞目当ての裏切りであった)に殺されてしまったのである。

 

長田忠致の裏切りで殺害された源義朝。のちに権力を持った頼朝は長田忠致に報復したという。『絵本武者備考』/国文学研究所

 父やその一族が次々と死に追いやられたことを知った夜叉御前の悲しみも大きく、世を儚んだことはいうまでもない。さらに、異母兄である頼朝まで捕らえられたことで生きる気力をも失い、わずか11歳(10歳とも)にして杭瀬川に身を投げてしまったのである。

 

 儚くも哀しい運命を、わずかな年月の中で生き、ふっと消えてしまった。それが夜叉御前だった。

 

 母の延寿御前も、娘の死を知って後を追うように入水しようとしたものの、父に咎められて断念。出家の道を選んだようである。娘の亡骸を、先に自らの手で葬っていた朝長の墓と同じところに埋葬。共々、供養し続けたというのであった。

 

 不思議な巡り合わせともいえるのが、この延寿御前の姉(北の方)が、義朝の父・為義(ためよし)の妻妾だったという点である。

 

為義が何人妻妾を抱えていたか定かではないが、この御仁、何と46人も子供がいたことが、保元の乱の動向を記録した『保元物語』に記されている。

頼朝の祖父にあたる源為義は、父・義朝に殺された。『本朝百将伝』/国文学研究所

 

夜叉御前の叔母・北の方を襲った悲運

 

 もちろん、ねんごろになった女性は、数えきれないほど多かったに違いない。ただし、為義は名だたる源氏の御曹司。そのお胤(たね)頂戴とばかりに娘を差し出す豪族があとを絶たなかった、そんな時代背景も加味して考えるべきだろう。

 

 ともあれ、その一人が北の方で、妹が為義の息子・義朝が寵愛した青墓宿の延寿御前だったのだ。

 

 そればかりか、義朝の子・頼朝までがここに立ち寄って、遊女を召したとの記録(『吾妻鏡』)まである。現在なら、スキャンダルとして世を賑わすようなお話であるが、この頃の女性関係は、随分とおおらかだったようである。

 

 この延寿御前の姉・北の方も、実に哀れな人生を歩んだ女性であった。『保元物語』にも登場しているので、振り返ってみたい。

 

 夫である為義が、敵対していた息子・義朝によって殺された(実際に手を下したのは配下であるが)。その後が、一層哀れであった。彼女は夫を殺されたばかりか、為義との間に生まれた4人の男の子まで首を刎(は)ねられるという、母としてこれ以上の悲しみはない悲惨な目にあっていたのだ。

 

 しかも、配下に命じて我が子を殺させたのが、義兄弟ともいうべき義朝であった。その義朝も、天皇に命じられて仕方なく自らの父とその子(義朝にとっては異母弟にあたる)らを殺害したわけで、不幸は二重にも三重にも折り重なっていたのだ。無情というべきか……。

 

 ともあれ、六条堀川の為義邸にいた4人の兄弟たちは、義朝配下の波多野義通(はたのよしみち)の手によって首を落とされた。と、ここまで読んだところで、気がつかれた方もおられるかもしれないが、この波多野義通とは、前述した、負傷後に父・義朝の手によって殺された朝長の叔父である。何とも不思議な巡り合わせであった。

 

とある姉妹兄弟と、不思議な縁で繋がる為義と義朝

 

 実は4人の子らが殺されてしまったちょうどその頃、彼らの母である北の方は、石清水(いわしみず)八幡宮に参詣に出ていて、子供達と離れ離れになっていた。夫の無事を祈願するための参拝であったが、非情にも、夫ばかりか我が子の命まで喪ってしまったのだ。もちろん、嘆き悲しんだことはいうまでもない。ついには、桂川に身を投げて死んでしまったのである。

 

 この桂川周辺は、もともと庶民の葬送の地であった。当然のことながら、辺り一帯には怨霊が彷徨(さまよ)っていたに違いない。その怨念に誘い込まれるかのように、身を投げたのかもしれない。

 

 なお、延寿御前と北の方の姉妹には、他にも兄弟がいた。その御仁たちのことにも触れておきたい。一人は政遠。前述の為義の子の一人・天王殿の傳(めのと)つまりお守役で、天王殿が首を刎ねられた後、自刃。もう一人の真遠は、平治の乱で敗れた義朝を房総半島の野間という地まで逃すのに尽力した御仁であった。

 

 夜叉御前や北の方ばかりか、彼らもまた為義・義朝父子と、見えぬ糸で結ばれていたのであった。

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藤井勝彦ふじい かつひこ

1955年大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』(天夢人)、『邪馬台国』『三国志合戰事典』『図解三国志』『図解ダーティヒロイン』(新紀元社)、『神々が宿る絶景100』(宝島社)、『写真で見る三国志』『世界遺産 富士山を行く!』『世界の国ぐに ビジュアル事典』(メイツ出版)、『中国の世界遺産』(JTBパブリッシング)など、日本および中国の古代史関連等の書籍を多数出版している。

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