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北条政子の夢に出た武者姿の亡霊は藤原秀衡だったのか?

鬼滅の戦史80


奥州藤原氏の最盛期を築き上げた3代・藤原秀衡(ひでひら)。その彼が、のちに尼となった北条政子の夢枕に亡霊となって現れたという。しかし、それは秀衡ではなく、恨みを抱えたまま殺された4代・泰衡(やすひら)であったとみなす向きもある。一体、どういうことなのだろうか?


絶大な勢力を誇った奥州藤原氏

藤原秀衡(右上)に対面し源義経(左)と紹介される郎党之図『義経記 平泉館』歌川国芳筆/東京都立中央図書館蔵

 奥州藤原氏といえば、後三年の役終焉から頼朝に滅ぼされるまでの約100年にわたって、奥州において絶大な勢力を誇った豪族である。名産の馬と金、及び大陸との交易で得た莫大な財をもとに、中央政界へ多額の献金を続けたこともあって、事実上、奥州支配を容認され、中央とは一線を画した治世を行っていた。中尊寺金色堂に象徴されるような、仏教文化華やかりし楽土創生を目指していたのである。

 

 その絶頂期ともいえるのが、3代目の藤原秀衡の時代で、出羽国(でわのくに)と陸奥国(むつのくに)の押領使(おうりょうし)に任じられ、軍事、警察権をも一手に握る要職に任じられていた。兵力17万といわれる、強大な軍事力をも保有していたのであった。その都というべき平泉は、平安京に次ぐ人口を抱えていた大都市だったとみられている。

 

 もちろん頼朝にとってみれば、今は源平合戦に明け暮れざるを得ないものの、いずれは潰しにかからなければならない存在であると認識していたことは間違いない。ただし、君主として有能な秀衡が生きている限り、下手な手出しもできず、静観するしかなかったのだ。

 

秀衡亡き後の泰衡の思い

 

 ところが、1187年、老獪な秀衡がついに病を得て亡くなった。しかも、その数カ月前から、謀反人として所在を追求し続けていた義経を匿(かくま)っていたことも判明。これを口実として攻め入るチャンスが到来したわけである。頼朝がこの機会を逃すはずがなかった。

 

 この奥州藤原氏潰しの方策として編み出されたのが、息子たちを仲違いさせて内部崩壊を起こさせることであった。ただ、3代目秀衡はすでにこの頼朝の思惑を予期、息子たちには義経を大将として兄弟が結束して、頼朝と対峙するよう言い含めていたのである。

 

 その最大の防衛策が、秀衡の死によって崩壊してしまった。4代目を継いだ泰衡(次男であったが、正妻の最初の子であったため嫡男とされた)が、頼朝の策謀に踊らされてしまったのだ。頼朝が朝廷に宣旨を出させ、泰衡に対して義経追討(ついとう)を要請するよう仕向けたのである。すでに泰衡にとっても、突如現れた義経なる少年に従うこと自体、片腹痛いと腹に据えていたのだろう。

 

 義理の兄・国衡(くにひら)が、父の策(秀衡の本妻を国衡に嫁がせた)によって、泰衡の義父となったことも気に食わなかった。むしろ、頼朝に恭順の態度を見せて領土を安堵してもらい、4代目として奥州に君臨したいと考えても無理のないことであった。頼朝からの脅迫に耐えきれなかったからというよりも、これを利用して、地位の安泰を図ろうとしたと考えられるのだ。

 

 その真偽はともあれ、手始めとして、義経に与する弟の頼衡(よりひら)を殺害(222日、後には弟の忠衡や通衡も殺害したとも)。その2カ月後の430日、ついに兵数百騎を引き連れ、義経が起居する衣川館(ころもがわのたて)を襲った。観念した義経は、妻子殺害後、自害して果てたのである。

 

 こうして、頼朝の要請に応えるかのように義経の首を討ち取った泰衡。その首を頼朝の元へと送って恭順(きょうじゅん)を表明したものの、頼朝にとっては、泰衡など利用するだけの存在。奥州侵攻への足掛かりにすぎなかった。泰衡が頼朝の謀を知ったものの、時すでに遅く、ついには大軍をもって攻め込まれてしまうのであった。恐れをなした泰衡が、郎党・河田次郎を頼ったものの、次郎にまで裏切られて殺されてしまった。

 

 その次郎も、頼朝に褒められるかと思いきや、「八虐(はちぎゃく)の罪」に当たるとして、斬首されてしまうのであった。こうして3代続いて栄華を誇った奥州藤原氏も、4代目の泰衡の代で滅んでしまったのだ。

奥州藤原氏第2代基衡夫妻と子の第3代秀衡が伽藍を壮大に再興したと伝わる毛越寺の開山堂(岩手県平泉町)/フォトライブラリー

亡霊となったのは秀郷ではなく泰衡か?

 

 それから数年後、すでに頼朝も亡く、妻・政子も尼となって尼御台(あまみだい)と呼ばれていた頃のことである。『吾妻鏡』に、それが某月3日のことだと記されていることを頭に入れておいていただきたい。政子の夢に、甲冑姿の武者の亡霊が現れ、平泉が荒廃している恨み言を語ったという。その3日というのが、政子の記憶によれば、秀衡の命日にあたるとか。そこから、政子がこの亡霊を秀衡のものと思ったと記録されているのである。

 

 もちろん、政子にとっても、夫・頼朝の謀とはいえ、奥州藤原氏を滅亡に導いたとの後ろめたさは感じていたのだろう。すぐに秀衡の供養をはじめたことはいうまでもない。

 

 ところが、3日が秀衡の命日というのは、実は間違いであった。秀衡の命日は1029日である。3日というのは、その息子の泰衡の命日(93日)にあたるのだ。そう指摘するのは、『逆説の日本史』を著した井沢元彦氏である。

 

 政子がそれを秀衡の亡霊だと言い張るのは、本来、泰衡こそが罪もないのに殺されたということを政子自身が自覚していたものの、それを口にしてしまうことをはばかったからだ。つまり、政子の夢に現れたのは秀衡ではなく、泰衡であった。秀衡は病に倒れて床に臥せったまま亡くなったはずで、化けて出ることなどありえない。武者姿でなかったことも、決め手の一つと考えたようである。

 

 一方、泰衡の死に様は、獄門にさらされた上、眉間に八寸の釘を打ち込まれて柱に懸けられるという無残なものであった。泰衡は頼朝の思惑に従って義経の首を刎(は)ねたにもかかわらず、大軍を送り込まれて戦火を彷徨った挙句、殺害されて無残な姿を晒された上、一族を滅ぼされてしまったのだ。その泰衡こそ恨み骨髄で、怨霊となって彷徨(さまよ)うのに相応しい。政子は頼朝の理不尽さを自覚していたものの、それをあからさまにすることができなかったのである。

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藤井勝彦ふじい かつひこ

1955年大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』(天夢人)、『邪馬台国』『三国志合戰事典』『図解三国志』『図解ダーティヒロイン』(新紀元社)、『神々が宿る絶景100』(宝島社)、『写真で見る三国志』『世界遺産 富士山を行く!』『世界の国ぐに ビジュアル事典』(メイツ出版)、『中国の世界遺産』(JTBパブリッシング)など、日本および中国の古代史関連等の書籍を多数出版している。

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