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義経を愛した静御前とは、いったいどんな女性だったのか?

鬼滅の戦史77


相思相愛だったと言われる源義経と静御前(しずかごぜん)。義経が頼朝に追われて逃亡生活を続ける中、捕らえられた静は、憎き頼朝の前で舞う羽目に。その時静が歌い上げたのが、義経への愛惜の念であった。これに怒り狂う頼朝、果たして、静の運命はどうなったのか?


頼朝の前で舞わざるを得なかった静の無念

「白拍子静」『賢女烈婦伝』歌川国芳/都立中央図書館特別文庫室蔵

「よしの山 みねの白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」

 

 愛しの義経を、謀反人として断罪しようとしていた憎き頼朝を前にして舞わざるを得なかった白拍子(しらびょうし)・静御前。その思いは、いかばかりのものだったのだろうか? 冒頭の一節は、静が鶴岡八幡宮で舞った時に、思わず口をついて出た歌であった。

 

「吉野に降り積もる白雪、それを踏み分けて姿を消したあの人が恋しい…」と、声高らかに歌い上げたのだ。「入りにし人」とは、いうまでもなく義経その人である。さらに、

 

「しづやしづ 賤のをだまき くりかえし 昔を今に なすよしもがな」と続ける。「おだまきから糸が繰り出されるように、昔を今に戻すことができたら良いのに…」と、義経との仲睦まじかった昔日を懐かしむのであった。

 

 一ノ谷や屋島、壇ノ浦における戦功によって、平家を滅亡に追いやった義経。最大の功労者であったにも関わらず、自らの権威を脅かされることに怯えて、弟を排斥しようとした頼朝。兄はあろうことか弟を謀反人に仕立て上げ、追討兵まで送り込むという仕打ちまで加えたのである。

 

 その追討の兵から逃れようと、義経と共に吉野山中まで行動を共にしたのが、静御前であった。義経にとっても、最も愛した女性だったに違いない。

 

 それでも、逃亡の足手まといになるとして、山中に取り残された静。その後彼女を待ち受けていたのは、供の者の裏切りと、追っ手の厳しい探求であった。結局は吉野の僧たちによって捕縛され、頼朝のいる鎌倉へと送られた挙句、その面前で舞わされることになってしまったのだ。

 

 しかし、我慢がならなかったのだろう。本来なら、源氏及び頼朝を讃えるべきところを、あろうことか頼朝が最も忌み嫌う弟を慕うようかのように歌ったのだから、頼朝が激怒したことは言うまでもない。断罪に処すと、声を荒げたのである。幸いにもこの時は、御台所である北条政子がたしなめたことで、なんとか難を逃れることができたようである。

 

静の終焉の地は何処?

新潟県長岡市栃尾にある静御前の墓と石塔。石塔は明治時代の末に、静の話を聞き知った小向村のセイという娘が静を哀れみ、自らが細々と蓄えたお金で、静の供養のために建立したという。

 ちなみに「白拍子」とは、今様や朗詠を歌いながら舞う芸人のことで、巫女が神に捧げる舞が原点であったといわれる。鳥羽天皇の御代に活躍した信西(しんぜい)こと藤原通憲(ふじわらのみちのり)が磯禅師(いそのぜんじ)に男装の烏帽子(えぼし)姿で舞わせたのが始まりといわれる。

 

 その名手と謳われた磯禅師の子として生を受けた静も、母に劣らぬ舞い手として人気を博したようだ。日照りが続いて多くの犠牲者が出た時のこと、雨乞いのために百人もの僧が読経したものの効果がなかった。これに続いて99人の白拍子まで登場させて次々と舞わせたものの、これまた一向に効き目がなかった。それが、100人目の静が舞い始めるや、にわかに黒雲が現れ、以降3日間も雨が降り続いたという。これを見た後白河上皇から「神の子」と讃えられ、「日本一」の宣旨までたまわったのだ。

 

 その静が、一ノ谷の戦い後に凱旋してきた義経に一目惚れ。上皇にねだって、仲立ちしてもらったといわれることもある。この頃の義経は、数えきれぬほどの女人と交わりがあったとされるが、彼としても、心を通わせたのは、どうやら彼女一人だったようだ。

 

 実は鶴岡八幡宮において静が頼朝の前で舞った時、すでに彼女のお腹の中には、義経の子が宿っていた。出産後にそれが男子とわかるや、頼朝の命によって有無を言わさず奪い取られ、無残にも由比ヶ浜に打ち捨てられてしまったことはよく知られるところである。

 

 その後、京の都に舞い戻ることができた静の元に、義経が奥州に逃れたとの知らせが入った。これを耳にした彼女は、早速奥州へと向かうが、途上の下総国葛西郡下辺見(茨城県猿島郡総和町)に差しかかったところで、義経の死を聞かされることになる。愕然とする静が、ここで病を得て死したと言い伝えられることもあるが、真相は定かではない。

 

 京に舞い戻ったとの記録もあるが、その後の動向は不明のままである。一説によれば、静の出身地である讃岐国入野郷小磯(香川県東かがわ市)に母とともに帰った後、剃髪。建久3(1192)年3月、24歳の若さでこの世を去ったとも言われる。

 

 ただし、静の終焉の地は、奈良県大和高田市磯野や長野県大町市美麻大塩をはじめ、埼玉県久喜市栗橋、兵庫県淡路市志筑、新潟県長岡市栃尾、福島県郡山市、福岡県福津市など数知れなく存在する。そればかりか、北海道乙部町を流れる姫川に投身したとする伝承もあり、何とも謎めいているのだ。

 

亡霊となって現れた静の恨み

 

 ともあれ、愛しの人ばかりか、その一粒種の我が子まで殺された静の恨みは底知れないものがあったに違いない。祟って出ても不思議ではない。その想定の元に描かれたのが、謡曲『二人静』である。

 

 舞台は、奈良の吉野山中を流れる吉野川流域。そこに静の亡霊が現れ、菜摘み女に乗り移るところから物語が始まる。勝手明神の神職に、雪の吉野山中での苦難や、憎き頼朝を前にして舞う羽目となった経緯など、在りし日の思いを切々と語りかけて、回向を願うというものである。静の亡霊が乗り移った菜摘み女に続いて静の亡霊も現れ、一人の女が二人になって舞うというのが特徴的だ。

 

 果たして静が、その後成仏することができたのかどうかはわからない。ただその恨みと悲しみだけは、この現代にまで切々と伝わり続けているのである。

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藤井勝彦ふじい かつひこ

1955年大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』(天夢人)、『邪馬台国』『三国志合戰事典』『図解三国志』『図解ダーティヒロイン』(新紀元社)、『神々が宿る絶景100』(宝島社)、『写真で見る三国志』『世界遺産 富士山を行く!』『世界の国ぐに ビジュアル事典』(メイツ出版)、『中国の世界遺産』(JTBパブリッシング)など、日本および中国の古代史関連等の書籍を多数出版している。

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