×
日本史
世界史
連載
ニュース
エンタメ
誌面連動企画

平清盛に寵愛された白拍子の仏御前が実は化けて出ていた?

鬼滅の戦史76


美人の誉れ高き白拍子(しらびょうし)の仏御前(ほとけごぜん)。愛妾(あいしょう)の祇王(ぎおう)を押しのけてその座を獲得したものの、わずか21歳で亡くなってしまう。実は、殺されたという伝承が残っているのだ。そしてその手口が、何ともおぞましいものであった。


『平家物語』では祇王らと共に往生

「仏御前 助高屋高助」『地名十二ヶ月之内 七月』/都立中央図書館特別文庫室蔵

 平清盛が、娘・徳子を高倉天皇に入内(じゅだい)させたことで、一層、平家一門が隆盛を極めるようになった、その頃のことである。

 

 とかく女人に目のない清盛は当時、白拍子の名手・祇王を寵愛していた。水干(すいかん)に立烏帽子(たてえぼし)をつけて舞うところから男舞(おとこまい)と呼ばれたもので、後には水干だけを着けて舞うようになって、いつしか「白拍子」と名付けられたという、その第一人者であった。八条近くに屋敷を構え、毎月米百石銭百貫を贈られ、暮らしも贅(ぜい)を尽くしたものになったようである。

 

 ところが、そこに現れたのが、昨今富に名を挙げはじめてきた仏御前なる白拍子であった。もちろん、祇王に負けず劣らぬ美形である。その評判の女人が、清盛の前に押しかけて舞を披露。と、これを気に入った清盛が、あろうことか、それまで寵愛していた祇王を追い出して、仏御前を招き入れてしまったのである。無慈悲にも追い出されてしまった祇王。一時は死のうとまで思いつめたものの、かろうじて思いとどまり、妹の祇女、母のとじとともに出家。嵯峨野に草庵(往生院、後の祇王寺)を結んで、ひっそり暮らし始めたのだ。

 

 それから幾月か過ぎたある日のこと、突如仏御前が、祇王らの庵を訪ねてきた。「祇王の身は明日の我が身」と悟り、自ら清盛の元を去ってきたというのであった。

 

 その後、4人共々仏に仕える身となり、過去のわだかまりもなく心を一つにして仏を念じたところから、いつしか「皆往生の素懐をとげけるとぞ聞えし」、つまり4人ともども、往生の本望を遂げたという。それが、『平家物語』に記された仏御前らの物語であった。

 

仏御前が追い出されった祇王を訪ねた草庵(往生院)、現在の嵯峨野・祇王寺/フォトライブラリー

なぜか亡霊となって現れたという謡曲『仏原』

 

 このように『平家物語』では4人ともども成仏したと記されているはずだが、謡曲『仏原』においては、仏御前が亡霊として現れたことになっている。白山を訪れた旅僧に、仏御前の亡霊が現れて回向(えこう)を願うというものであった。運命に翻弄された女の哀しみを言い表したものと推測されているが、亡霊となって現れたというのは、それだけでは説明がつきそうもない。

 

 本来、亡霊となって現れるには、それなりの恨みがあってこそと思えるのだが、そこでは真相が語られることがなかった。亡霊となった理由、それを知るには、とある伝承に頼るしかなさそうだ。それが伝えられているのが、石川県小松市原町である。まずは、その概要から見てみることにしよう。

 

石川県小松市に残る仏御前伝説

 

 ここでは、仏御前は清盛の元を立ち去って祇王とともに暮らし始めたというところまでは同じであるが、その後すぐに清盛の子を宿していることに気がついたとしているのが異なる点だ。当然のことながら、尼寺で出産するわけにもいかず、故郷へと向かうことに。安元2(1176)年のことだった。ところが、郷里にたどり着く前に産気付いてしまう。それが、白山山麓の吉野谷村の木滑というところであった。ここで、子(男の子だったとか)が生まれたものの、儚くも死産。その後村に帰り、数年後の治承4(1180)年、21歳という若さで生涯を終えたという。

 

 その舞台とされる石川県小松市原町には、仏御前の墓ばかりか、彼女が暮らしたとされる仏御前屋敷跡などもあるほか、毎年916日には、「仏御前まつり」が催され、白拍子の舞が奉納されているのだ。

 

子ともども殺されたことで、亡霊となって祟った?!

 

 気になるのが、同地に伝わるもう一つの伝承である。村に戻ったとはいえ、都で随一と謳われた美人の白拍子である。村の男たちが放っておくわけがなかった。日夜、仏御前の元に集まってきたというのも無理はない。

 

 ところが、これに怒り狂ったのが、嫉妬に駆られた女房たちであった。何と、仏御前を裏山に誘い出して殺してしまったというから恐ろしい。それも、毒殺、あるいは機織(はたお)りで横糸を通す器具として使う杼(ひ)を使って殺したというからおぞましい。杼をどのように使って殺したのかも気になるところである。

 

 杼と言えば、かつてアマテラス大御神に仕えていた織女の一人がスサノオの乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)に驚いて、杼が陰部に突き刺さってしまったという『古事記』の記載も思い出される。

 

 一説によれば、彼女の子はまだお腹の中にいたとか。我が子ともども殺されてしまったのだから、恨み骨髄に達したのも容易に想像できそう。もちろん、彼女は祟って出た。それも、ターゲットは妊婦である。地元で妊婦が出産しようとすると、「のろい風」とも呼ばれた大風(原風)を巻き起こして、恐怖に陥れたというのである。

 

 ただし、なぜかは不明ながらも、昼間に生まれる子だけを狙ったとも。ならばということで、以降、出産の際には、産室に屏風を巡らせて、夜のように暗くするのが習わしになったという。また、彼女が村人たちに妊娠していると噂されたことに激怒して自害したとの異伝もある。

 

 いずれにしても、鳥肌が立つようなおぞましいお話である。美人の誉れ高かった白拍子の仏御前が恨みの果てに化けて出たとは信じたくないが、うら若き美女の早世ゆえ、何かと尾ひれが付いて語られてしまったのだろう。いったい、どの説が本当なのだろうか?

 

KEYWORDS:

過去記事

藤井勝彦ふじい かつひこ

1955年大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』(天夢人)、『邪馬台国』『三国志合戰事典』『図解三国志』『図解ダーティヒロイン』(新紀元社)、『神々が宿る絶景100』(宝島社)、『写真で見る三国志』『世界遺産 富士山を行く!』『世界の国ぐに ビジュアル事典』(メイツ出版)、『中国の世界遺産』(JTBパブリッシング)など、日本および中国の古代史関連等の書籍を多数出版している。

最新号案内