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2度生き返り嵐をも鎮めた文覚上人とは?

鬼滅の戦史73


源頼朝に、平家打倒を目指して挙兵を勧めたとされる文覚上人(もんがくしょうにん)。実は、一度ならず二度までも死後に生き返ったばかりか、海の神である竜王を叱りつけて嵐を鎮めたという逸話を持つ修験者であった。その出家の動機というのもまた、何とも凄まじいものであった。


『平家物語』に残る謎のエピソード

不動明王らと修行する文覚。『橋供養梵字紋覚』豊原国周筆/都立中央図書館特別文庫室蔵

 文覚上人といえば、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』において、源義朝の髑髏(どくろ/されこうべ)をその子・頼朝に突き付けて、平家打倒の狼煙を上げるよう強引に迫った場面が思い起こされる。その髑髏が本当に義朝のものであったかどうかはともあれ、頼朝の心が揺さぶられたことは間違いなさそうである。自身が流人であったにもかかわらず、伊豆を抜け出して京の後白河法皇の元へ向かって、平家討伐の院宣を出させることに成功。その数日後には早くも鎌倉に舞い戻り、頼朝の前に院宣を突き付けている。傍若無人ぶりも凄まじいが、その行動力もまた抜群であった。

 

 その御仁がどのような人物であったのかを知るには、何より『平家物語』を紐解くのが一番である。そこでは、2度も亡くなったとしながらも、その都度息を吹き返したことが記されている。

 

 また、伝承として、死した後に亡霊となり、隠岐に流された後鳥羽上皇の御前に現れたと伝えるところもあるなど、死してなおしぶとさを見せつけるような御仁であった。

 

謎めいたその生涯は、いったいどのようなものだったのだろうか?

 

文覚に恋われたのに殺害されてしまった袈裟御前。『賢女烈婦伝』/都立中央図書館特別文庫室蔵蔵

恋い焦がれた袈裟御前を誤って殺害

 

 生年は定かではない(1139年頃とも)が、父の名が遠藤左近将監茂遠(もちとお)であったことは間違いない。その子・遠藤盛遠(えんどうもりとお)が、文覚の俗名(生前の名)である。

 

 摂津源氏の渡辺党の一員で、北面武士として鳥羽天皇の皇女・統子内親王(とうし/むねこないしんのう)に仕えていたようだ。しかし、19歳の時に突如出家。その理由というのが、実におぞましいものであった。

 

 盛遠の従兄弟で、且つ同僚でもあった源渡(渡辺渡)、その妻・袈裟御前(けさごぜん)に想いを寄せてしまったことが発端である。絶世の美女と謳われたその人妻に恋い焦がれた挙句、思い余って男を殺すつもりが、誤って彼女自身を殺してしまったというのだ。

 

 もともと乱暴者であった盛遠。自制心まで失って、彼女に「言うことを聞かなければ、お前の母を殺す」と脅して強引に迫ったという。困り果てた袈裟御前、一計を案じて「私は夫ある身。それほどまでにお慕いくださるなら、夫を亡き者にしてください」と言い、「夫の寝所に忍び込んで、夫を討ってください」と持ちかけるのであった。

 

 これを信じた盛遠が、暗闇の中、夫の寝所に忍び込んで男を殺害。と思いきや、切り割いた首を灯にかざして見ると、何とそれは、恋い焦がれた袈裟御前のものであった。妻が夫の身代わりとなって寝所で待ち構え、わざと自分が殺されるように仕向けたのだ。

 

 自らの命と引き換えに貞節を貫き通した袈裟御前、それを盛遠は自らの手で殺してしまったのだから、いかな乱暴者とはいえ、その心痛は計り知れないものがあっただろう。それが出家の動機であったというのも、なるほどと頷いてしまうのである。

 

修行中に二度亡くなり二度生還する

 

 その後は熊野において修験者として修行に励むが、その動向は『平家物語』が詳しい。

 

「修行とはいかほどのものか試してみよう」と、小手調べに、厳冬の滝壺に身を沈めた。1210日過ぎの、雪が降り積もる極寒時の荒行である。滝壺に入って首のところまで浸かったまま数日。何度か気を失いながらも耐え続けた挙句、とうとう息が絶えてしまったのだ。

 

 しかし、ここで奇跡が起きた。何と、滝の上から天の童子が降りてきて文覚の身体を撫で摩るや、死んだはずの文覚が息を吹き返したというのだ。それも、一度ならず二度も生還したとか。もちろん、史実とは思い難いが、仮にそれが仮死状態で、法力によってそこから抜け出したとすれば、考えられなくもない。

 

 ともあれ、法力を得たと自負してさらなる自信を得た文覚の態度が、一層横柄になったことは想像に難くない。神護寺の再興を願って、後白河上皇に強訴。騒ぎを起こしてしまった。「神護寺に荘園を1箇所寄付してくださらぬうちは立ち去らぬ」と強引に迫り続けたことで、ついには捕らえられて流罪に。渡辺党の棟梁・源頼政(よりまさ)の知行国であった伊豆国に流されたのだ。

 

 文覚が法力によって嵐を鎮めたというのは、この時のことである。伊勢国の安濃津から出航した後、遠江の天竜灘に差し掛かったところで嵐に遭遇。文覚が船の舳先に立って、「聖が乗る船に危害を加えるとは何事か!」と大喝するや、すぐに波風が収まったという。

 

 そうして無事に伊豆へとたどり着いた文覚。そこで出会ったのが、同じく伊豆国蛭ケ島に流されていた頼朝であった。もちろん、その後頼朝と頻繁に誼(よしみ)を通じたはずである。それから幾年か過ぎたある日のこと、清盛が法王を幽閉したことに文覚が憤慨。頼朝に父・義朝の髑髏を示して、平家打倒の挙兵を勧めたという訳である。

 

 その後、頼朝が幕府を開くや、要人となって活躍するが、頼朝が亡くなるとともに失脚。

 

 将軍家や天皇家の相続争いに巻き込まれて、佐渡国や対馬国に流され、対馬へ向かう途上の鎮西(九州)で客死したとされる。承久の乱に敗れて隠岐国に流された後鳥羽上皇の前に、文覚が亡霊となって現れたと言われることもある。何とも謎めいた、不思議な御仁であった。

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藤井勝彦ふじい かつひこ

1955年大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』(天夢人)、『邪馬台国』『三国志合戰事典』『図解三国志』『図解ダーティヒロイン』(新紀元社)、『神々が宿る絶景100』(宝島社)、『写真で見る三国志』『世界遺産 富士山を行く!』『世界の国ぐに ビジュアル事典』(メイツ出版)、『中国の世界遺産』(JTBパブリッシング)など、日本および中国の古代史関連等の書籍を多数出版している。

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