優れた軍略で活躍した『源義経』はなぜ頼朝に追討されてしまったのか?~英雄に学ぶ「失敗」と「教訓」~
今月の歴史人 Part.1
歴史には「勝者」と「敗者」が存在するが、『正史』として残されるのは常に勝者の歴史である。勝者はその事績が華々しく語り継がれていく一方、敗者は「先を見通せなかった愚かな人物」として描かれることが、ある種のパターンとなっている。失敗となってしまった原因は何だったのか? その行動にあった信念とはなんだったのか? 敗れていった者たちにも正義はあり、そのなかにこそ「気づき」や「学び」、そして歴史の真の姿があるのかもしれない。ここでは、源平合戦において、華々しい活躍で平氏を滅亡へ追い込んだ英雄・源義経の「失敗」から教訓を得てみよう。(『歴史人』9月号「『しくじり』の日本史 ─70人の英雄に学ぶ失敗と教訓─」より)
源義経から学ぶ[失敗のケーススタディ〕
▶頼朝に追討されてしまったのはなぜ?
弱者から愛され頼朝に厚遇された義経

国立国会図書館蔵「源義経」より
源義経は「判官びいき」で知られるように、弱者、応援したくなる存在の典型である。それは兄頼朝のために一途に平家追討に従事し、源氏を勝利に導いたが、逆にその活躍が仇となり、猜疑心の強い頼朝により追討の憂き目にあい非業の死を遂げるといったストーリーに由来する。
頼朝は強者の象徴であり、庶民もまた常に強者から抑圧され、時にその理不尽さにもがき苦しむ。つまり義経が頼朝にひどい目にあわされているように、庶民たちも為政者など力によって不当に虐げられているのであり、そこに「判官びいき」の心情が生じるわけだろう。庶民感情としてはそれで結構だが、史実としては冷静に捉え直すべきだ。
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高館義経堂(義経終焉の地) 義経終焉の地にある高館義経堂(岩手 県西磐井郡平泉町)は、第4代仙台藩 主伊達綱村が義経を偲んで建てたもの。 中には義経の木像が安置されている。
まず頼朝が義経を冷遇したという点。そもそも平家追討の大将軍に抜擢しているのだから、むしろ重用していたといえる。頼朝に無断で高官受け叱責された自由任官問題では、本来辞任させられるはずだが、そのままである。つまり頼朝も認めていたのである。そして暗殺事件。頼朝が義経を暗殺しようとして刺客を送ったというもの。これも刺客が送られる前に義経は挙兵している。つまり義経が挙兵したから頼朝が攻撃したのである。頼朝の「判官びいき」が悪い方向に働いたのかもしれない。
監修・文/菱沼一憲