見事、父の仇を取った曾我兄弟が祟りに出た理由とは?
鬼滅の戦史83
富士で行われた、巻狩(まきが)りの最中に繰り広げられた曾我(そが)兄弟の仇討ち。無事、父の仇である工藤祐経(くどうすけつね)を討ち取って本懐を果たしたものの、後に弟・五郎が祟(たた)り出たといわれる。それはいったい、どういう理由によるものだったのだろうか?
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曽我時宗(時致・中央)と曽我祐成に加え、討ち取られた仁田忠常も描かれている。『富士裾野曾我兄弟本望遂図』歌川国芳筆/東京都立図書館蔵
生涯を仇討ちに費やした兄と弟
「日本三大仇討ち」という仇討ちをご存知だろうか? 1つはいうまでもなく、誰もが知る忠臣蔵こと赤穂浪士(あこうろうし)の仇討ちである。しかし、意外と知られていないのが、あとの2つ、伊賀越えの仇討ちと曾我兄弟の仇討ちだ。
前者は岡山藩士渡辺数馬が父の仇・河合又五郎を伊賀上野で討った仇討ちで、後者が今回紹介するところの仇討ちである。
源頼朝が征夷大将軍に任じられた翌年のこと、まさに頼朝の絶頂期ともいうべき時に起きた事件、それが富士の巻狩りにおける仇討ち事件であった。
ちなみに「巻狩り」とは、大人数で獣を追い詰めて仕留める狩猟法であるが、武士にとっては重要な軍事訓練である。地形を把握する為にも必要不可欠で、武士の頂点に達した頼朝にとっては、権威を誇示するという目的もあった。
舞台は富士山の裾野、静岡県御殿場市から富士宮市にかけて、多くの御家人たちを集めて執り行われた。期間も、5月7日に始まって翌6月7日まで、約1カ月にも及ぶ大掛かりなものであった。その最中の建久4(1193)年5月28日、藤原南家の流れを汲む御家人・工藤祐経が、曾我兄弟によって、父の仇として討ち取られてしまったのである。
祐経を討ち取ったのは、兄の曾我十郎祐成(すけなり/22歳)と弟の曾我五郎時致(ときむね/20歳)。十数年前に、工藤祐経が所領を巡る騒動の果てに、義理の父である伊東祐親(いとうすけちか)の暗殺を目論んで矢を放ったものの、間違って河津祐泰(かわづすけやす)に当たって死に至らしめたことが発端であった。この時、祐泰の子である兄・一万(十郎)は5歳、弟・箱王(五郎)は3歳という幼さであった。
それでも、気丈夫(きじょうぶ)で悔しさを隠しきれない母は、幼き兄弟に父の仇討ちを約束させたというから、何とも気丈夫な女性であった。以降二人の生涯は、まさに父の仇討ちに費やすだけの人生だったといっても過言ではなかった。
仁田忠常「新形三十六怪撰」 「仁田忠常洞中に奇異を見る図」-都立中央図書館/月岡芳年2456-C001-021-e1656318114138-203x300.jpg)
頼朝挙兵から奥州藤原征討など数々の戦、比企能員の変、頼家にも関わった仁田忠常。『新形三十六怪撰』「仁田忠常洞中に奇異を見る図」月岡芳年筆/都立中央図書館蔵
酔いつぶれた工藤祐経を斬殺
兄弟が仇討ちを決意してから十数年、その間何度も隙を伺って討ち取ろうとしたものの、思いの外警戒が厳しく、なかなか手を下せなかった。しかし、巻狩りとなれば、誰憚(はばk)ることなく矢を射ることが可能。野をめぐるうちには、必ずや千載一遇のチャンスが訪れると見込んだのだ。
そして兄弟の願い通り、その機会がやってきた。5月28日の深夜、工藤祐経の宿舎が判明。遊女と床をともにしながら、酒に酔って前後不覚となって寝込んでいたところに踏み込むことができたのである。この時、祐経は、兄弟が押し入っても全く気がつかず、兄・十郎が「起きろ!」の一言とともに、祐経の肩を刺して目を覚まさせたほど。その直後、二人して二太刀ずつ切りつけ、見事本懐を遂げたのであった。
屋形内には大勢の郎等(ろうどう)たちがいるはずであったが、誰もが酔いつぶれていたものと見え、すぐに出てくる気配がなかった。二人が逃げようと思えば逃げ切れたはずであったが、共にすでに命を投げ捨てる覚悟の上。このまま逃げ去るよりも、ここで討ち取られたほうが本望と、声を張り上げて郎等たちの出現を待ち望んだのだ。
この騒ぎに気がついて次々と男たちが太刀を手に打ち掛かってくるも、二人に太刀打ちできるものはなかなか現れなかった。十余名を切り捨てた後の仁田(新田)次郎忠常(ただつね)との激しい打ち合いの果て、ついに兄・十郎が斬られてしまうのであった。
その後、弟・五郎が一人奮闘するも、大力の五郎丸に組み敷かれて、ついに御用。頼朝の前に引っ立てられてしまった。ここで、尋問にあたった頼朝が、その堂々とした振る舞いに感銘を受けて許そうとするものの、梶原景時(かじわらかげとき)にたしなめられ、結局、打ち首を宣告せざるを得なくなったのである。
手際の悪い打ち首が怨念を生む
こうして、兄弟ともに討ち取られてしまったものの、見事念願の仇討ちを果たしたわけであるから、本来なら成仏してしかるべきである。しかし、最後になって状況が一変した。それは、刑の執行を託された筑紫仲太という御家人が、あろうことか切れ味の悪い刀で、弟・五郎の首をゴシゴシと擦るように切り落としたからたまらない。五郎は悶え苦しむことしきりで、成仏どころか、恨みが頂点に達したまま死んでしまったのだ。
これを知った頼朝が怒ったことはいうまでもない。「そいつの首も、その刀で擦り首にしろ!」と言ったものだから、男は慌てて、筑紫へと逃げてしまったのである。しかしその道中、五郎の怨霊に悩まされ続けて苦しんだ挙句、7日目にはとうとう狂ったように悶え苦しんで死んだということであった。
余談であるが、もともと工藤祐経が伊東祐親の暗殺を目論んだ背景に、頼朝が絡んでいたと見なす向きがあることも付け加えておきたい。頼朝の子・千鶴丸が伊東祐親に殺害されたことに対する報復だというのだ。これが事実ならば、間違って矢が当たってしまったとはいえ、兄弟の父の殺害に頼朝が関わっていたことになる。真相を知っていた頼朝にとっても、兄弟の動向が気になっていたのだろう。兄弟もその真相を知っていて、頼朝の暗殺まで企てていたとの説まである。もちろん、真相は闇の中。本当のことが知りたいところである。