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北条政子の娘・大姫が言い放った「葵になりました」の意味とは?

鬼滅の戦史84


許嫁(いいなずけ)であったにも関わらず、父・頼朝の命によって首を刎(は)ねられてしまった源義高(よしたか)を慕い続けた大姫(おおひめ)。彼女は悲しみの果てに、とうとう気を病んで早世してしまった。その大姫が言い放った「葵(あおい)」とは、いったい何を意味するのだろうか?


 

武者鑑一名人相合南伝二 大姫君/国立国会図書館蔵

首を刎ねられた許嫁を慕い続ける大姫の悲運

 

「今日から葵になりました」

 

 源頼朝と政子の間に産まれた長女・大姫。彼女が、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の中で語ったのが、このひと言であった。北条時政の妻・りくの愛児誕生に沸き立つ親族一同。その中に突如大姫が走りこんできて、この場違いとも思えそうなひと言を発したのだった。

 

 これを見た視聴者の中には、凍(い)てついてしまった人も少なくなかったのではないだろうか? おまけに、皆にまじないの言葉を合唱させようとしたばかりか、魔除けのイワシの頭を配り回るなど奇行の連続。

 

 戸惑いをはるかに通り超して、「病んでいるのでは?」と思われても仕方のない所作であった。彼女の姿が健気で天真爛漫であるがゆえに、かえって痛々しい思いがしたものであった。

 

 6歳の時に、源義仲(よしなか)の嫡男・義高(当時11歳)と婚約したものの、その後父親同士が敵対。挙句、頼朝が義仲を討伐したばかりか、婿であるはずの義高の首まで刎ねるよう命じてしまったのだ。

 

 それを知った大姫が、義高を女装させて逃げさせたものの、願い虚しく首を刎ねられてしまった。しかも、あろうことか、刎ねられた首が、大姫のいる館に届けられてしまう。この理不尽さが祟って、大姫はとうとう心の病に苛まれた挙句、わずか20歳にして早世してしまうのである。

 

『吾妻鏡』によると、その後頼朝が、摂政・近衛基通(このえもとみち)や貴族・一条高能(いちじょうたかよし)との縁談を強引に推し進めようとしたものの、「そんなことをするくらいなら、深淵(しんえん)に沈んだほうがマシ」とばかりに、頑なに拒んだとか。

 

 それでも懲りない頼朝は、今度は後鳥羽天皇の妃として入内(じゅだい)させようとまで目論む。宮廷内に多額の金品まで贈り届けたことが功を奏したものか、この縁談がまとまるのも時間の問題であった。いよいよ、入内間近かと思われたところで、大姫は病死。まるで、父に当てつけるかのような突然の死であった。頼朝が縁談を持ち込む度に、大姫の病が重くなったと指摘する向きもあるが、なるほど…と、つい頷いてしまうのだ。

 

 さらに、大姫亡き後、後鳥羽天皇との縁談を受け継いだ妹の乙姫(おとひめ)も、話がまとまりかけた直後に病死。まるで、大姫の生霊や死霊が、あたかもそれらを阻止せんとするかのようであった。

『源氏物語』で葵の上を生き霊となって苦しめた六条御息所。『焔』上村松園筆/東京国立博物館 ColBase

六条御息所に呪い殺された葵の上との関連は?

 

 改めてもう一度、冒頭の大姫の言葉を思い起こしていただきたい。ドラマの中では、それが何を意味しているのか説明されなかったが、彼女が語った「葵」という名を聞いて筆者は思い起こすことがあった。と同時に、思わず背筋が寒くなったのである。かの『源氏物語』に登場する「葵の上」が思い浮かんだからだ。

 

「葵の上」とは、『源氏物語』の主人公・光源氏の本妻の名。ただし、光源氏とは愛も冷めて、疎遠だったようである。勢い、彼の目は他の女性の元に。好色ぶりを発揮したのだ。その曰く付きのプレイボーイに声をかけられて舞い上がってしまったのが、これまた夫(東宮)を亡くして空閨を囲っていた歳上の六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)であった。

 

 しかし、逢瀬を重ねたものの、その恋は長くは続かなかった。疎遠であったはずの本妻が身ごもったことを知ったからである。嫉妬に狂った六条御息所は、とうとう生きたまま怨霊(生霊)となって、本妻の「葵の上」を苦しめたのである。結局は「葵の上」は、夕霧を産んでほどなく急死。まるで、六条御息所の生霊が祟ったかのようであった。

 

 この「葵の上」と、大姫が語った「葵」が果たして同一のものか、筆者にはわからない。それでも、筆者同様に「葵の上」を思い起こした人がいたとしたら、まるで六条御息所の生霊が大姫にのり憑ったかのように思えたに違いない。大姫の病が重くなって死に至らしめたというのも、自らの生霊が父に掣肘(せいちゅう)を加えるための仕業だったのではないかとまで思えてくるのだ。

大姫の婚約者だった木曽義高『英雄百人一首』玉蘭齋貞秀筆/国文学研究資料館蔵

義高の塚の側に葬られた大姫の墓

 

 ともあれ、婚約者であった義高を慕い続けた大姫は、結局病が癒えることなく早世してしまった。彼女は、源氏の菩提寺であった勝長寿院(しょうちょうじゅいん/鎌倉市雪ノ下)の奥に南新御堂を建てて大姫を祀ったことが、『吾妻鏡』に記されている。ただし、そこに大姫が葬られたかどうかは不明だ。

 

 この勝長寿院跡の北西に位置する常楽寺(じょうらくじ/鎌倉市大船)の裏山に、義高の首が葬られたという木曽義高塚がある。すぐ近くには姫宮の墓と言い伝えられる小さな祠(ほこら)があるが、これが大姫の墓とみなされる(北条泰時の娘の墓と見る向きが多いが…)こともあるようだが果たして?

 

 いずれも近いとはいえ、墓は別々。せめて死後の世界では二人を寄り添わせてあげたい…との思いからすれば、できれば同じところに葬ってあげて欲しかったと思うのだ。

 

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藤井勝彦ふじい かつひこ

1955年大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』(天夢人)、『邪馬台国』『三国志合戰事典』『図解三国志』『図解ダーティヒロイン』(新紀元社)、『神々が宿る絶景100』(宝島社)、『写真で見る三国志』『世界遺産 富士山を行く!』『世界の国ぐに ビジュアル事典』(メイツ出版)、『中国の世界遺産』(JTBパブリッシング)など、日本および中国の古代史関連等の書籍を多数出版している。

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