頼家暗殺・一幡謀殺の内情【前編】
鎌倉殿の「大粛清」劇⑩
鎌倉殿の親裁を補佐するはずだった合議制と御家人たちの不満

頼家と安達景盛との間で、景盛の妾をめぐる諍いがあり、梶原景高からの景盛謀反との讒言により討伐すらしようとした。政子に諌められたことから頼家の逆恨みをかったという。国立国会図書館蔵
正治元年(1199)4月、鎌倉殿を継承して間もない頼家のもとで13人合議制がしかれた。この体制はこれまで鎌倉殿頼家の権限を制限するものと評価されていたが、近年の研究ではむしろ訴訟の取り次ぎを13人に整理することで、鎌倉殿の親裁(しんさい)を補佐するねらいがあったと評価されている。頼家政権を象徴する13人合議制の構成員の多くは当時の鎌倉に出仕する数少ない諸大夫(しょたいふ)身分(四位・五位の中級貴族)の者であった。すなわち彼らこそ幕府の意思決定に関与し得る宿老に他ならなかった。
その年の10月、13人の宿老のひとりである侍所別当・梶原景時を糾弾する66名の御家人の連判状が頼家に提出された。九条兼実(くじょうかねざね)の『玉葉(ぎゃくよう)』には、景時が頼家に「千幡(実朝)を将軍に立てる陰謀がある」と密告したためだとある。
さらに、頼家をことさら強権的・独善的当主として描写する『吾妻鏡』の記述は、御家人の不満が頼家にも向けられたことを示唆する。だが、その不満を抑えてくれたはずの景時はいない。頼朝期には抑制されていた御家人の不満や権力闘争を頼家はもはや抑えることができなかった。
比企一族からは能員(よしかず)が13人の宿老に連なったが、頼家は宿老の子弟や信濃の青年御家人10人ほどを集めて近習(きんじゅう)とした。ここには比企能員の子の宗員(むねかず)と時員(ときかず)を始め、小笠原長経(おがさわらながつね)、中野能成(よしなり)、僧源性(げんしょう)らがあった。
一方、この時期北条一族で最も政治力をもったのは頼家の母、尼御台所(あまみだいどころ)政子であった。政子は頼家を積極的に補佐し、そして制御しようとした。そこで北条一族から時政と義時を13人の宿老に連ねた。また、義時の弟時房(ときふさ)が近習に入れた。頼家の蹴鞠(けまり)会に時房は皆勤している。北条時政は頼朝の舅であったが、頼朝のもとではついに無位・無冠であり、頼朝時代に時政が政治に関与することはなかった。
ところが、頼家政権に移行するなり、様々な事案に大江広元(おおえひろもと)や三善康信(みよしやすのぶ)といった吏僚と協議を行い、積極的に政治に関与するようになった。
さらに、正治2年4月1日には源氏一門以外では初めて従五位下・遠江守(とおとうみのかみ)に叙任された。これは北条氏が他の御家人とは一線を画す諸大夫身分に昇進したことを意味するもので、以後の北条氏権力の展開にとって画期的な出来事である。しかし、これもおそらく尼御台所政子の力であろう。
御家人の不満を抑えていた景時が亡くなり対立の溝が深まる
頼家は5人の子を儲けていた。長子は建久9年(1198)生まれの一幡(いちまん)で、母は比企能員の娘若狭局であった。これに、公暁(こうぎょう・くぎょう/1200年生まれ、母は足助[あすけ]氏など諸説あり)、栄実(えいじつ/1200年生まれ、母は一品房昌寛[いっぽんぼうまさひろ]の娘)、禅暁(ぜんぎょう/生年未詳、母はまたは一品房昌寛の娘)の男子と、女子・竹御所(たけごしょ/1202年生まれ、母未詳)が続いた。
このような中、建仁3年8月、頼家が病に伏せいよいよ危篤状態となってしまった。そこで北条氏は頼家の後継に6歳の長男一幡を立て、将軍家としての権力基盤たる日本国総守護と関東28か国の総地頭を継承させると決定した。しかしその一方で、12歳の弟千幡には関西38か国の総地頭を継承させるとしたのである。
北条と比企の対立がついには将軍権力の分割問題にまで発展したのである。『吾妻鏡』では、比企一族がそのことに不満をもち謀反を企てたことから、北条時政・義時に誅伐され滅んだとするのである。
監修・文/簗瀬大輔