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頼家暗殺・一幡謀殺の内情【後編】

鎌倉殿の「大粛清」劇⑪

比企氏と頼家の排斥を急いだ「頼家死亡」は時政の先制の一手

頼家の死を知る尼御前
右側に亡くなった頼家と嘆き悲しむ政子の様子が描かれている。『愚管抄』によれば、頼家は病死ではなく刺客に殺されたとも伝えられる。国文学研究資料館蔵

 比企氏滅亡後、弟千幡(せんまん/実朝)が鎌倉殿と征夷大将軍を継承し、北条時政が後援する体制が樹立した。慈円(じえん)はこれを「関東は幼い実朝の祖父北条の世になった」と言った(愚管抄/ぐかんしょう)。

 

 しかし、それでも実朝の兄で時政のもうひとりの外孫である前将軍・頼家がまだ存命であることを忘れてはいけない。頼家はこのあとどのようにして将軍の座を追われ歴史から姿を消していったのだろうか。

 

 近衞家実(このえいえざね)の『猪熊(いのくま)関白記』や藤原定家(さだいえ)の『明月記(めいげつき)』には、源実朝(当時は千幡)が征夷大将軍に任命された建仁3年(1203)9月7日の記事として「現将軍頼家が9月1日に死去したため、弟が将軍を受け継ぐことになった」と記されている。つまり、鎌倉から朝廷には頼家は死亡したものと報告され、実朝への将軍宣下の申請が行われたのである。

 

 頼家の後援者である比企能員が滅ぼされたのが9月2日であるから、「頼家死亡」の使者はこれより早く京へ向けて出立したことになる。つまり、頼家死亡の奏上と実朝への将軍宣下申請は、比企氏と頼家の排斥を急いだ北条時政の先制の一手だった。

 

 ところが、9月5日、危篤に陥っていた頼家が奇跡的に意識を取り戻したのだ。回復した頼家に知らされたのは一幡と比企能員の死であった。しかも手を下したのが祖父北条時政であることを知った頼家は憤激し、侍所別当・和田義盛と近習・仁田忠常(にったただつね)に時政討伐を命じたのである。

 

 しかし、義盛が時政にこのことを告発したことで事が露見し失敗した。9月6日には仁田忠常も討たれた。仁田忠常は一幡の乳母夫のひとりであった。

 

 9月7日、それでも太刀をもって立ち上がろうとする頼家を母政子が取り押さえ、頼家は出家させられることとなった。その同じ日、弟千幡を従五位下・征夷大将軍とする宣旨を伝える朝廷の使者が鎌倉に到着した。その祝賀の空気の残る9月29日、頼家は先陣の随兵百騎、女騎15騎、後陣の随兵200騎に守られながら伊豆修善寺に追放された。

 

 11月6日、頼家は母政子と弟実朝に書状をしたためた。そこには「修善寺の寂しさは耐えがたいので近習を寄越(よこ)して欲しい」ということと、「安達景盛を処罰したい」ということが書かれていた。近習とは中野能成(よしなり)のことである。

 

 『吾妻鑑』では中野能成は比企能員に加担した罪で拘束されたことになっている。しかし、9月4日付けで俊成の本領を安堵する時政の「下文」が残されており、能成は北条方として戦功を挙げていることが明らかになった。御家人中野能成は北条氏被官へと転身することで難局を乗り切ったのである。そうとも知らず遠く伊豆の山中からかつての近臣を慕う頼家を哀れというほかはない。

 

 「安達景盛を処罰したい」というのは、正治元年(1199)に頼家と景盛との間で景盛の妾(めかけ)をめぐる諍(いさか)いがあり、頼家が政子に諌められるという事件から来る頼家の逆恨みを言っている。この時頼家の命で景盛の妾を強引に連れ出したのもやはり中野能成である。頼家の要望はいずれも却下され、以後書状さえ出すことも禁止されたのである。

 

頼家の行状を不徳とし殺害 語られない時政の周到な行動

 

 元久元年(1204)7月19日、鎌倉に伊豆から飛脚が到来した。頼家が伊豆修善寺で死去したのだ。23歳であった。『吾妻鏡』はその事実を伝えるのみだが、『愚管抄』の記主慈円は「修善寺で頼家入道が刺し殺されたという。容易に討ち取ることができなかったので、首に緒を巻き付け、急所を切り取って殺したと聞いている」とその凄惨な最期を記録している。

 

 7月24日には頼家の家人らが謀反を企て、金窪行親(かなくぼゆきちか)に討滅されている。行親は武蔵国加美郡(埼玉県上里町)を本拠とする北条義時被官である。

 

 滅亡した比企一族は源氏とは義朝の代からの縁者であり、その後継の頼朝・頼家・一幡の3代にわたって乳母夫関係と姻戚関係を重層的にもつことで深く結びついていた。もし頼家の鎌倉殿としての地位が盤石となり、さらに一幡への継承が確実なものになれば、比企氏は鎌倉殿の外祖父としてその立場を一層強めることになった。比企氏の滅亡が頼朝の死から程なくのことであったことを考えるならば、比企氏の権力伸長に対する時政・義時の対策がかなり周到に準備されたものあったと考えてもおかしくない。

 

 では、北条氏は一幡の抹殺にどう手を下したのだろうか。『吾妻鏡』によると、一幡は9月2日に小御所で殺害され、9月3日に頼家の近習・大輔房源性(たいふぼうげんしょう)が遺骨を拾い高野山奥院(和歌山県高野山町)に納めたとある。

 

 これに対して、一幡は乳母が抱きかかえて逃げ延びたが、11月3日に北条義時に捕らえられ、被官の藤馬(とうま)という者に殺され、埋められたという『武家年代記裏書』や『愚管抄』の記録がある。どうやら一幡の抹殺には義時が積極的に関与していたようだ。

 

 義時は比企一族だけでなく、実朝のライバルの一幡さえも葬り去ることで、勢力拡大に成功するのである。

 

監修・文/簗瀬大輔

『歴史人』20227月号「源頼朝亡き後の北条義時と13人の御家人」より

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