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3代実朝が継承した権力と経済基盤

鎌倉殿の「大粛清」劇⑧

鎌倉殿=関東長者としての地位継承と征夷大将軍任官がなされた人物

源実朝
建仁3年10月8日、北条時政邸において12歳で元服し、後鳥羽院の命名により実朝と称した。加冠は門葉筆頭の平賀義信、理髪は祖父の北条時政が行った。国立国会図書館蔵

 建仁3年(1203)9月7日、源頼家の弱冠(じゃっかん)12歳の弟千幡(せんまん)が鎌倉殿に推戴(すいたい)され、従五位下(じゅごいのげ)・征夷大将軍に叙任された。

 

 千幡は10月8日に祖父北条時政の名越(なごえ)の館(神奈川県鎌倉市)で元服し、実朝(さねとも)と名乗った。名付け親は治天の君・後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)である。鎌倉殿=関東長者としての地位継承と、征夷大将軍任官がほぼ同時になされた最初の将軍であるから、実朝の将軍就任は将軍権力の確立という点でシンボリックである。

 

 では結果的にせよ実朝将軍へと結実した将軍権力とはいかなるものだったのだろう。

 

 武士には武力を保持し行使する武人としての側面(軍事力)と所領を支配する領主としての側面(経済力・統治力)がある。両者は一体であり、それをいかに安定的に保持するかが武士勢力存立の基盤であり、求められる秩序である。その基盤と秩序を保障するのが鎌倉殿で、国家から付与された権力が将軍権力である。

 

 将軍権力は主従制的な権力と統治権的な権力で成り立っているとされる。

 

 主従制とは御恩(ごおん/所領の給与・安堵/あんど)と奉公(軍事的奉仕)の関係のことで、将軍と御家人との人格的なつながりに基づいている。

 

 統治権とは主に裁判権のことである。御家人の利害衝突(所領紛争など)を解決し、決定に従わせる力である。

 

 権力は寿永2年10月宣旨(せんじ/東国支配権の付与)、文治の勅許(ちょっきょ/守護・地頭の設置)などを経て段階的に備わっていった。幕府とは鎌倉殿と御家人が構築した秩序を院と公家政権が受け入れ、それを征夷大将軍という官職のもとに公認した唯一の武家権門(けんもん)であると言うことができる。

 

 鎌倉幕府の将軍は「将軍家」という権門の当主である。その限りにおいて、拠って立つ経済基盤は従来の公家権門や寺社権門と同様、知行国や荘園に依拠し、荘園制の枠組みの中で機能した。将軍家の荘園の多くは平家没官(もっかん)領で、それを関東御領(ごりょう)と言った。

 

 一方、将軍家の知行国は関東御分国と呼ばれた。関東御分国は変遷を経ながら、次第に武蔵(むさし)・相模(さがみ)・伊豆(いず)・駿河(するが)・陸奥(むつ)・出羽(でわ)に定まっていった。家人(けにん)を知行国の受領や荘園の諸職に任じたりすることで権力を行使するのは従来の権門と同じである。

 

 また、将軍には軍事や治安維持を名目に国ごとに守護を置き、荘園や国衙領に地頭を置くことができた。これは武家権門にだけ認められた固有の国家権力である。これによって将軍は御家人を介して国や荘園ごとに軍事指揮権や警察権を行使することができた。日本国総守護・総地頭と言われる所以(ゆえん)である。

 

 また地頭を介して軍事費はもちろん年中行事や鎌倉御所整備の費用などの経済的負担(関東御公事)を徴発することもできた。

 

 そして重要なのは、守護や地頭の補任(ぶにん)が恩賞となり、主従制を固く担保したことである。また、頼朝は朝廷の位階や官職への推挙(すいきょ)も恩賞化したが、これは御家人と朝廷権威の結合を抑制することにもなった。

 

国家から権益を請け負う権門は「家」で成り立つ故に北条氏・比企氏が対立

 

 権門は中世成立期に確立した「家」で成り立っている。家とは国家から請け負った権能や家産、そこに生じる様々な権益を当主が血統を通じて継承する政治・社会システムである。それは武家権門の幕府も同じである。頼朝は父義朝以来の縁者で自身の乳母夫(めのと)でもある比企一族を頼家の乳母夫に就けた。

 

 一方、配流地伊豆以来の支援者であり、頼家・実朝の外祖父である北条時政の娘阿波局(あわのつぼね)と頼朝の弟阿野全成(あのぜんじょう)夫妻を実朝の乳母夫とした。両者の協力体制に武家権門の当主としての源氏の血統の護持を託したのである。

 

 ところが比企氏と北条氏はそれぞれが後見する頼朝の子を担ぎ、互いに抗争しあってしまった。例えば比企能員は娘若狭局(わかさのつぼね)を頼家に嫁がせ、一幡を儲けることで次期将軍の外祖父の道を拓いた。一方、北条時政も正治2年(1200)4月1日に源氏一門以外では初めて従五位下・遠江守(とおとうみのかみ)に叙任されるなど地位の向上に努め、比企氏と鎬(しのぎ)を削った。

 

 建仁3年8月27日、病に伏せていた将軍頼家が危篤(きとく)状態に陥った。このことがきっかけで北条・比企の対立が頂点に達した。北条氏は頼家の後継に6歳の長男一幡を立て、将軍家としての権力基盤たる日本国総守護と関東28か国の総地頭を継承させると決定した。しかしその一方で、12歳の弟千幡にも関西38か国の総地頭を継承させるとしたのである。将軍権力の分割である。

 

『吾妻鏡』によると、この決定に不満をあらわにした比企能員が謀反を企てたため、9月2日、義時が一幡の居所である小御所を襲撃し、比企能員とその一族を攻め滅ぼした。弱冠12歳の千幡が従五位下に叙され、征夷大将軍に任じられたのはそのわずか5日後の9月7日のことである。これにより権門としての権能・家産は実朝ひとりに継承され、将軍権力の分割は回避されることになった。しかし同時にそれは北条時政による専制体制の確立でもあった。

 

監修・文/簗瀬大輔

『歴史人』20227月号「源頼朝亡き後の北条義時と13人の御家人」より

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