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源実朝~血塗られた将軍位を継いだ悲劇の歌人将軍~

『鎌倉殿の13人』主要人物列伝 第22回


2代将軍・頼家(よりいえ)の横死を受けて、将軍の座に就いた第3代将軍・実朝(さねとも)。最終的には北条家に暗殺され、人物としても暗愚(あんぐ)だったと伝わるが、はたして本当だったのだろうか? 


武人、政治家としての評価より、歌人としの高名を得た源実朝。イラスト/宇野市之丞

 

 

 源実朝(幼名・千幡/せんまん)は、建久3年(1192)、父・頼朝が征夷大将軍になった年に、その二男として生まれた。母は北条政子である。頼朝死後に将軍位を継いだ兄・頼家が、建仁3年(1203)に危篤となり出家したのをきっかけにして、頼家の乳母の一族で、妻の実家でもあり、幕府の実力者でもあった比企能員(ひきよしかず)と北条時政・義時らの間に争いが起きた。この結果、比企一族と頼家の嫡男・一幡(いちまん)らは皆殺しにされた。その後、時政ら北条氏は頼家を伊豆・修善寺に幽閉して頼朝の二男・千幡を3代将軍にした。この折に「実朝」と改名した。

 

 実朝の将軍位は、血塗られた経緯で開始したのである。以後、実朝が将軍位にあった16年間に、兄・頼家の謀殺、畠山重忠討伐、和田義盛とその一族の滅亡など、北条氏が仕掛けた血生臭い事件を経験する。同時にそれは、実朝自身が関わった事件でもあった。

 

 元来が実朝は、武人とか政治家というよりも文化人的な性格を帯びていた。生まれながらの武人ではない実朝は、こうした事件を経験する度に、次第に将軍位という政治的な部分を忌避するようになり、和歌の世界に逃避するようになっていった。清和源氏には、武人の血と同時に「文化」の血が濃厚に流れている。一例を挙げれば、源義家(頼朝の祖先)の弟・義光(甲斐源氏の祖先)は、武人でありながら、管楽器・笙の名手であった。

 

 実朝は、母・政子や祖父・時政の勧める結婚を拒否して京都の前大納言・坊門信清(ぼうもんのぶきよ)の娘を娶(めと)った。その折に挙式に付き添ってきた内藤知親(ないとうともちか)が藤原定家の和歌の弟子であった。実朝は定家が編んだ『新古今和歌集』を希望し、元久2年(1205)4月12日、実朝は生まれて初めての和歌12首を詠んだ。実朝の和歌として知られるのが「箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波のよるみゆ」などである。実朝は、定家に自ら詠んだ和歌700首を送った。これが後に定家によって編纂されて『金塊和歌集』になる。

 

 また、こんなこともあった。実朝は、叔父・北条義時への抵抗として「日本を出る」計画を立てた。東大寺の大仏を造ったという陳和卿(ちん なけい)に命じて宋に渡るための船を造ることを命じた。しかし、半年後に完成した船は、不備があって鎌倉の海に漕ぎ出すことはできなかった。

 

 実朝は、承久元年(1219)正月27日右大臣拝賀のために鶴岡八幡宮に参詣した。参詣の終わった後に、隠れていた頼家の二男・公暁(くぎょう)が飛び出して実朝に斬り付けた。「親の仇はこう討つぞ!」と公暁は叫んだという。この後、公暁も討たれた。妻の坊門氏との間には子どもはなかった。実朝(公暁も含めて)の死によって、頼朝の血筋に繋がる清和源氏宗家は絶える。この時、実朝は28歳という若さであった。

 

 余談ながら、この後清和源氏の正しい血脈は甲斐源氏・武田氏のみとなる。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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