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三浦義澄~平家打倒と鎌倉幕府創設に尽力した相模の武将~

『鎌倉殿の13人』主要人物列伝 第18回


頼朝挙兵時のメンバーの1人であり、平家打倒の数々の合戦でも活躍した三浦義澄(みうらよしずみ)。鎌倉幕府創設後も頼朝側近として君臨した義澄の功績に迫る。


 

鎌倉幕府が整備した街は現在の鎌倉へと受け継がれている。

 

 三浦義澄は大治元年(1127)に三浦半島で生まれている。三浦氏は桓武平氏の高望王(たかもちおう)を始祖として、相模国三浦半島に領地を持っており「後三年の役」では、その4代目・三浦為次が源義家に従って戦い『陸奥話記』『後三年戦記』では「相模国のつわもの、三浦の兵太郎為次」と記されている。平氏出身ではあっても、根っからの源家の家臣団という意識を持っていた。

 

 治承4年(1180627日、三浦次郎義澄は、仲間と共に伊豆北条館に頼朝を訪ねた。ここで頼朝と共に「平氏打倒」の挙兵について打ち合わせた。この1カ月後。817日に頼朝が挙兵すると、三浦一族も頭領の義明(義澄の父)の下に一族を挙げて行動を開始した。

 

 だが、三浦一族が到着する前に平家方の大庭景親(おおばかげちか)の軍勢によって頼朝は石橋山(いしばしやま)合戦に敗れていた。義澄は、これを知って頼朝の生死を確認するために三浦に戻る途中で、大庭方(平家方)に与していた畠山重忠(はやけやましげただ)の軍勢と合戦になった。さらに居城・衣笠城に籠城したが敗れた。この城で父・義明は89歳の生涯を閉じ、義澄らは海を渡って頼朝が籠る安房に赴いた。この後、畠山重忠らは頼朝に降伏し、頼朝の手勢になる。

 

 富士川合戦の後に、義澄は三浦介として旧来の地位と所領を保証された。この権限は、後々までも「相模国の守護」として子孫に伝えられることになる。

 

 全軍を率いて一気に上洛を目指そうとした頼朝に、千葉介常胤(つねたね)・上総介広常(ひろつね)らとともに義澄は「背後には常陸の豪族・佐竹氏(源義光の長男・佐竹義業の子孫)があって、頼朝に従わず、また頼朝の虚を窺(うかが)っている者も少なくないから、先ず東国の安定経営が急務である」と献言した。頼朝はこうした意見に従って兵を返し、11月には佐竹氏を討ち、鎌倉幕府の基礎を整えることになった。

 

 その後も、三浦義澄ら一族は頼朝の合戦に武功を挙げ頼朝の信頼を勝ち取っている。また、一族のうち、義澄の甥・和田義盛は侍所の別当(長官)にも任じられるなど、三浦一族は幕府草創期の御家人として有力な立場に立った。

 

 正治元年(1199)、頼朝死亡後に頼家が2代将軍になる頃には、義澄は既に73歳という高齢に達していた。だが、幕府創設以来の宿老(元老)として「合議制の13人」にも参画した。この後、有力御家人たちの対立は続くのだが、三浦氏は義澄の嫡男・義村を中心に、北条氏と結びつつ、その権勢を強めていくことになる。義澄は、正治2年(1200)、74歳で没する。この後は三浦氏の家督や御家人としての地位は、すべて三浦義村(よしむら)に受け継がれていく。 

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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