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梶原景時~頼朝の信任が厚かった重臣はなぜ失脚し謀殺されたのか?~

『鎌倉殿の13人』主要人物列伝 第15回


石橋山合戦で源頼朝を助け、鎌倉幕府創設に尽力した梶原景時(かじわらかげとき)。一方で源義経への讒言(ざんげん)など、ドラマなどでは悪人として描かれることの多い武将である。その人物像とは?


 

宇治川の戦いでの先陣争い、上総広常の暗殺など、残された武勇伝は多数。一方、弁舌に優れ、和歌をたしなむなど無骨なだけの東国武者とは一線を画した。イラスト/宇野市之丞

 歌舞伎十八番に「暫(しばらく)」という芝居がある。鎌倉時代の鶴岡八幡宮前で、善人・弱者が悪人・強者に殺される寸前、大きな太刀を腰に差し、大きな薙刀を持って真っ赤な筋隈(すじくま)を顔に描いた大男が現れて「しばらく(待て)!」と止めに入り、最後には悪人を散々に懲らしめるという芝居である。この芝居の主人公が「鎌倉権五郎景正」である。正義の人・権五郎景正は、梶原景時から数えて4代前、曾祖父に当たる。時代的には「前九年の役・後三年の役」に活躍した人物であるから「鎌倉氏」を名乗る相模の武士であることは確かである。

 

 この鎌倉を本拠とした鎌倉氏から梶原氏になった景時については、資料がなく生年すら分からない。長男・景季(かげすえ)が正治2年(1200)に39歳で死没していることを考えれば、同時に戦死した景時の年齢は60歳を越え、70歳近かったと思われる。推定だが、頼朝挙兵の頃は40歳から50歳という年齢ではなかったか。

 

 景時の行動が資料・文献に現れるようになるのは治承4年(1180)の石橋山合戦からである。この時、景時は平氏から命じられて頼朝追討に出陣した大庭景親(おおばかげちか)の陣営にいた。この戦いに敗れて脱出した頼朝が隠れている場所を知りながら、景時が故意に見逃したことで頼朝は九死に一生を得た。これ以来、頼朝は景時を頼りにするようになり、平氏追討軍には、軍目付として参戦している。

 

 源義経とともに戦った屋島・壇ノ浦合戦では総大将の義経と戦術を巡って争い、これを含んで後に頼朝に義経を讒訴(ざんそ/ありもしないことをでっち上げて悪口を告げる)した。これらが重なって、義経は結果として頼朝から追われ、最期を遂げることになる。

 

 鎌倉幕府では、侍所所司・厩(うまや)別当などの要職にあり、建久2年(1190)の頼朝の上洛では後陣奉行となっている。ただ、生来の弁舌の巧みさが表に出ればよいが、裏目に出ると御家人仲間からも嫌われるようになる。頼家政権では「合議制の13人」に入るが、要領の良さと巧みな弁舌とによって、利己的な権勢欲を表面に出し、他人を陥れることを平気で行った。

 

 正治元年(1199)正月、2代将軍・頼家に(頼朝時代と同様に)結城朝光(ゆうきともみつ)を「野心を抱く者」として讒言したが、三浦義村・和田義盛ら他の有力御家人から弾劾される。この結果、鎌倉を追放され相模国から甲斐に逃れるも、その翌年・正治2年正月20日、謀叛を企てて鎌倉に上洛する途中に駿河国狐崎の在地武士団に討たれ、哀れな末路を遂げた。

 

 正義の武士・鎌倉権五郎の末裔とは思えない醜態を晒した武士として、一族ともに滅びたのであった。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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