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三善康信~不遇だった頼朝に京の情報を伝え続けた「諜報機関員」~

『鎌倉殿の13人』主要人物列伝 第12回


大江広元とともに、鎌倉幕府初期における主要ブレーンの1人であった三善康信(みよし やすのぶ)。僧侶出身の学識を活かし、誕生間もない幕府基盤の構築に尽力した。その智略と活躍を解き明かす。


 

鎌倉幕府が整備した街は現在の鎌倉へと受け継がれている。

 

 三善康信は、保延6年(1140)に明法家(律令制の学問の1つの教授)である三善家に生まれ、早くから朝廷内でその能力を認められた。

 

 しかし、康信の伯母(母の姉)が、源氏の棟梁の息子・頼朝の乳母であったことから、平氏の一族が勢力を伸ばしてくる時期には、昇進も認められず、不遇な立場にあった。だが康信は、そうした頼朝との関係ゆえに親交は深めていて、伊豆に配流された頼朝に対して、1カ月に3度は京都の様子や平家の動静などを知らせ続けた。

 

 治承4年(1180)6月には、平家による源氏追討の危機をいち早く知らせ、それを知った頼朝が平家打倒の挙兵に至るきっかけを作っている。

 

 養和元年(1181)には出家し、元暦元年(1184)には頼朝の要請によって鎌倉に下向した。同時期には、朝廷の官僚であった大江広元(おおえのひろもと)も鎌倉に下っている。広元、康信は頼朝の政務の補佐を行った。後に、頼朝の御所内に問注所(訴訟に関する役所)が置かれると、その実務は康信によって担われた。

 

 建久2年(1191)正月には、政所・侍所・問注所の幕府3機関が正式に整備されると、康信は問注所の初代執事(実務長官)に任じられ、弟・康清も公事奉行に任命された。

 

 康信が任命された問注所執事は、頼朝以来、頼家・実朝という鎌倉将軍3代に渡って政務に参与することになる。

 

 正治元年(1199)正月、頼朝が死去するとその嫡子・頼家が2代将軍の座に就いた。しかし、18歳の青年である将軍に幕府の独裁的な権限を持たせることに不安を感じた幕府の宿老たちは13人の合議制を作った。これによって、将軍の訴訟の専断を停止させるなど、頼家の権力行動に歯止めを掛けるための合議制であった。この13人の中の1人に文官である康信もいた。

 

  こうして徐々に、北条一族による鎌倉幕府の支配体制が整えられていく過程でいくつかの、御家人同士の争いが起きた。元久2年(1205)の畠山重忠(はたけやましげただ)による謀叛(むほん)事件では、康信は大江広元と相談して、幕府建物の警固配置を決めるなど、幕府の長老として立場を維持した。

 

 なお、康信にとって(鎌倉幕府、ひいては日本史の資料としても)残念な事件が起きた。それは、承元2年(1208)正月、康信の邸(名越亭)が焼失したことである。この屋敷の裏手には文庫蔵があり、将軍家文書・書籍。雑務文書・累代文書などが収められていた。また『散位倫兼日記(さんい・ともかね・にっき)』など重要な文章類もあって、その焼失に康信はとても落胆したという。

 

 康信は年齢を重ねるに従って、その周辺の変化(特に北条氏による執権体制の強化)などによって、幕府中枢における活躍の場面は少なくなっていった。

 

 康信の最後の役割は、承久3年(1221)、承久の乱での発言であった。乱が起きた時、病気を押して幕府に出仕した康信は大江広元同様に「即時出撃」を強く主張した。乱に勝利し、幕府体制を固めることに、康信は最後に貢献してこの年、病が重くなり、長年司ってきた問注所執事の職を子息・康俊(やすとし)に譲って同年8月9日に死亡する。82歳という、この時代としては長寿を生きた文官であった。

 

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過去記事

江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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