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源義経~ 源平合戦の英雄から謀叛人に転落した「鎌倉殿」の弟 ~

『鎌倉殿の13人』主要人物列伝 第8回


黄瀬川(きせがわ)での感動的な再会からわずか5年。兄・源頼朝から謀叛人(むほんにん)の烙印をおされた源平合戦の英雄・義経は、数少ない手勢とともに逃避行を続けた。過酷な運命にもてあそばれた義経の生涯に迫る。


 

鎌倉幕府が整備した街は現在の鎌倉へと受け継がれている。

 

 かなり昔のことだが、この源義経(みなもとのよしつね)は「牛若丸」という幼名で知られ、しかも鞍馬山の天狗に教わった剣術の達人という設定であった。僧兵上がりの「弁慶」という大男と、京都・五条橋の上で戦って勝つというおはなしが絵本に載ったりした。

 

 本当の義経は、源氏の棟梁であり平清盛によって討たれた源義朝の九男として平治元年(1159)に生まれた。幼名を「牛若」といい、母は朝廷に仕える雑支女(雑用係)という低い身分であり、異母兄の頼朝とは、母親の身分が違いすぎていた。義経には2人の兄(今若・乙若)がいた。兄弟はすべて、母親の美貌のお陰で助かった。義経も一命を助けられ、鞍馬山の僧になるべく預けられたが、16歳になった時に自分が源氏の御曹子であったことを知り、鞍馬山を飛び出して、奥州・平泉の藤原秀衡(ふじわらひでひら)を頼って北に向かった。

 

 治承4年(1180)8月、頼朝が平家打倒に立ち上がった後に、兄の挙兵を知った義経は奥州・平泉から駆け付けた。駿河国・富士川で平家の大軍と戦う直前(直後という説もある)、兄・頼朝と対面した。兄弟2人は涙を流して対面を喜び合い、平家打倒を誓った。この後、頼朝の軍勢は一進一退を繰り返しながらも平家に対して有利になっていく。翌年(治承5年)には、清盛が病死する。

 

 同じ時期に、信州・木曽にいた同じ源氏の一族である源義仲も平家打倒の挙兵をし、いち早く都入りを果たした。これを苦々しく思っていた頼朝は、義経ら弟に兵を与えて義仲追討に向かわせた。義経は、近江国・粟津で打ち破り、さらに平氏を一の谷合戦・屋島合戦で破り、壇ノ浦合戦で殲滅(せんめつ)させた。

 

 義経の戦術・戦略は、少数で奇襲して、短期間で相手を打ち負かすというやり方であり、後白河法皇、朝廷公卿たちや京都の民衆も、義経に拍手を贈り、義経は一躍アイドルになった。

 

 こうしたいくつかの出来事があって、義経と頼朝は徐々に不和になり、とうとう憎しみ合う関係になる。義経に対して頼朝は刺客を送り、暗殺まで謀る。義経は抵抗するが、相手が大きすぎた。結局、第2の故郷ともいえる奥州・平泉に戻った。帰ってきた義経を秀衡は喜んで迎え、もしも鎌倉幕府・源頼朝が奥州を攻撃するならば、義経を総大将として奥州18万騎が迎え撃つという軍略を立てる。しかし義経に不幸だったのは、義経が平泉に帰り着いたこの年、文治3年(1187)10月に秀衡が病死したことであった。

 

 秀衡は、泰衡(やすひら)など息子たちに「義経を総大将にして頼朝と戦うように」という遺言を残すが、泰衡らはこの遺言を守らず、頼朝の圧力に屈して義経を攻撃する。文治5年(1189)閏4月30日、高舘(たかだて)にいた義経の家族・主従は平泉・藤原軍に攻められて討ち死にする。奮戦した家臣・弁慶が弓矢を総身に受けながら立ち往生したという伝説も残る最期であった。義経は31年の生涯をここに閉じた。だが江戸時代以降、義経は奥州から生き延びて北海道に渡り、さらにモンゴルに辿り着いて「ジンギスカン」になった、という異説が語られるようになった。その真偽は不明である。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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