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源頼朝【後編】~武士政権を樹立した “ 鎌倉殿 ” の絶頂と不安~

『鎌倉殿の13人』主要人物列伝 第3回


この男にとって人を疑うことは生きる術であった。信じるものが誰もいない配流先での生活が、男の心を捻じ曲げた。仇敵平家の打倒後、高まりすぎた男の猜疑心は、血をわけた弟にも情け容赦なく向けられた。


 

鎌倉幕府が整備した街は現在の鎌倉へと受け継がれている。

 

 頼朝の天下統一(征夷大将軍就任)への戦いは、まだ続く。だが、平家滅亡に武功を立てた弟・義経との不和は拡大していた。義経が「1人で平家を滅ぼしたような顔をしている」などという讒言(ざんげん)書が、目付の御家人・梶原景時(かげとき)から届き、義経が自分の許可なく後白河院から官位を受けたりしたことも、頼朝には気に入らなかった。

 

 これらが兄弟の不仲の原因とされるが、実は頼朝の義経への不快感は、義経の身元引受人的であった奥州・平泉の藤原秀衡(ひでひら)の存在にあった。秀衡は、頼朝挙兵の時点では18万騎という兵力を擁した平家と並ぶ日本でトップクラスの実力者であった。この秀衡が、自分に味方してくれる筈であったのに義経と対面後は音沙汰がなくなった。そこで頼朝は秀衡を疑い、弟の義経までを疑うようになっていたのだった。

 

 元来が、頼朝は猜疑心の塊のような性格であったという。幼い頃に流人とされ、監視の目の下で育った。他人を信じてはいけない、と思いながら生き延びてきたのが、猜疑心という「人は信じない」「疑ってかかれ」という性格に育ったのだった。これが後に弟や有力御家人、源氏一族までを殺すことに繋がる。

 

 頼朝は、東国支配権を勝ち取ったが、この後さらに全国に守護・地頭を設置する権限まで手にした。頼朝にとってこれは、東国ばかりか西国までを統率することに直結する。文治5年(1189)には、義経を討ち、奥州藤原氏を滅亡させた。建久3年(1192)3月に後白河院が死去し、その7月に頼朝は征夷大将軍に就任した。

 

 頼朝の三男・実朝(さねとも)が生まれたのはその翌月の8月であった。頼朝には10年前に嫡男・頼家が誕生しており、後継者資格のある男児は2人となった。

 

 初期の鎌倉幕府では、頼朝の舅であり多くの政治的折衝にも長けていた北条時政、御家人統制に尽力し頼朝腹心として支えた梶原景時、文官として頼朝に数々の助言をした下級貴族の大江広元(おおえのひろもと)が、幕政の中心にいた。だが、その上に君臨する頼朝は、かなり専制・独裁的に幕府を主導した。

 

 頼朝が突然死亡したのは建久10年(1199)正月13日のことである。その前年10月、相模川橋架橋の落成供養に出席した帰り道、落馬して病床に着いた末の死亡であった。頼朝の死は、その当時も後世も、様々に推測された。怪談のような説では「西海で沈んだ貴人の霊(安徳天皇と思われる)を見て落馬した、という。つまり「怨霊の祟り」説もある。他には、突然の脳卒中で落馬したという説、刺客によって殺されたのではないか、とする暗殺説など様々である。

 

 いずれにしても頼朝は、鎌倉幕府を軌道に乗せて10年もしないうちに没した。53歳であった。この時、長年連れ添ってきた妻・北条政子は、ある決意をした……。 

 

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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