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平清盛 ~ 頼朝に先駆けて武家政権を打ち立てた “ 源氏の仇敵 ” ~

『鎌倉殿の13人』主要人物列伝 第6回


保元の乱、平治の乱に勝利。敵対する同族やライバル源義朝(よしとも)を討ち、武家の棟梁の地位を得た平清盛(たいらのきよもり)。しかし、その後の政権運営でつまづき、没落の道を歩み始める‥‥。


 

ドラマ、小説などで描かれる悪辣なイメージが先行し、知名度のわりに人気のない平清盛だが、海外との貿易(日宋貿易)を模索するなど先見性のある政治家でもあった。大河ドラマ『平清盛』(2012年放映)の際には主人公に取り上げられた。
イラスト/宇野市之丞

 平清盛は、武家としてはじめて太政大臣従1位という最高の官位に昇り挙げ、平氏政権を樹立した武将である。その館が京都六波羅にあったことから「六波羅殿・六波羅入道」とも呼ばれた。平氏は、祖父・正盛、父・忠盛が朝廷に仕えて蓄えた経済力を背景に中央政界に地位を得ると、清盛の時代に武家棟梁としての地位を継承・確立した。

 

 清盛は平忠盛を父として、元永元年(1118)に生まれたが、実は白河院の御落胤(ごらくいん)であり、母は白河院の寵妃・祇園女御(ぎおんのにょうご)の妹だという。母が懐妊後に忠盛の妻となり、清盛が生まれたと伝えられる。これは事実であろう。

 

 保元の乱(1156)では、源氏の源義朝(頼朝の父)とともに後白河天皇方として戦って勝利を収め、少納言入道・信西(しんぜい)と組んで勢力を伸ばした。

 

 ついで平治の乱(1159)には源義朝ら源氏の勢力を破り、武家の棟梁としての地位を確立した。2つの乱は「武士と武力」の力を内外に見せ付ける結果となった。清盛の平氏は、以後国家権力を握るほどの軍事部門として君臨し続ける。その平氏の総帥が清盛であり、頼朝は清盛によって殺されるところを、母・池禅尼の要請に従って助命され、伊豆に流された。

 

 清盛は、西国に基盤を持ったまま武士を組織化し、さらに対宋貿易や海上交通にも深い関心を持って臨んだ。

 

 また清盛は、平氏の繁栄を計ろうと、一族と朝廷の有力者との婚姻をしきりに結んだ。清盛の娘・盛子は関白・藤原基実(もとざね)の正室になり、徳子(建礼門院)は高倉天皇の中宮(ちゅうぐう)として安徳天皇を生んでいる。

 

 治承4年(1180)に安徳天皇が即位すると、清盛は天皇の外祖父という地位を得る。なお、高倉天皇の母は、清盛の妻・時子の妹・建春門院滋子という関係だった。清盛は、こうして朝廷の一旒どころとの姻戚政策によって、すべての権威を平氏一門に取り込んだともいえる。

 

 だが、清盛の方策は後白河院と対立し、その関係は徐々に悪化していった。治承3年11月、遂に清盛はクーデターを敢行し、後白河院を幽閉。反平氏派の公家の官位を解き、親平氏派にすげ替えを行った。ここに清盛の独裁政権が樹立された。

 

 これに対して、後白河院派の人々による反平氏の行動が企図されるが、ことごとく失敗に終わる。しかし、白河院の第2皇子・以仁王と源三位頼政の挙兵があり、その令旨が伊豆の源頼朝、木曽の源義仲、甲斐源氏一族の挙兵に繋がっていく。

 

 清盛は福原に遷都(都を移すこと)によって対抗するが、諸国は内乱状態となる。養和元年(1181)閏2月4日、熱病に冒された清盛は、平氏の行く末を案じながら64歳の生涯を閉じる。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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