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北条時政 ~「鎌倉殿」の後ろ楯となった幕府最初の “ 執権 ” ~

『鎌倉殿の13人』主要人物列伝 第5回


北条家の素性は定かではない。桓武平氏の子孫とする系図も残るそうだが、おそらく想像の産物だろう。徒手空拳(としゅくうけん)だったこの男の中に、京から来た源氏の御曹司を担ぎだし、世に出る策謀が閃いた──


 

鎌倉幕府が整備した街は現在の鎌倉へと受け継がれている。

 

 源頼朝が挙兵した際に、本来ならば平氏の側にいるはずであった北条時政(ほうじょうときまさ)は、娘の政子と結婚して婿になっていた頼朝の支援に立った。頼朝が伊豆国蛭ヶ小島(ひるがこじま)に流された時には、伊東祐親(すけちか)とともに頼朝の監視役であった。娘・政子が頼朝と結ばれて長女・大姫(おおひめ)を生んだことで結婚を認め、頼朝支援に回った。

 

 時政は、保延4年(1138)生まれ。代々、伊豆国田方(たがた)郡北条に住む在庁官人の家であった。

 

 治承4年(1180)8月、頼朝が挙兵した後に相模国石橋山の戦いに敗れ、再起を図った際の10月、時政は嫡男の義時を連れて甲斐国の源氏の総帥・武田信義を谷戸城(やとじょう)に訪ねて「挙兵支援」を申し入れた。時政・義時父子は、甲斐・信濃の軍勢とともに駿河国黄瀬川(きせがわ)で平家軍と対峙していた頼朝と合流した。以後、平家追討の戦いに、時政は頼朝の側近にあって補佐した。頼朝とのこうした関係から、鎌倉幕府では御家人筆頭のような立場になった。

 

 文治元年(1185)11月には、頼朝の代官として千騎を率いて上洛し、後白河院らとの交渉にも当たった。いわば時政は、太平洋戦争の後に日本に進駐したGHQ(連合軍司令部)の司令長官・マッカーサーと同様の役割を京都で担当したのであった。

 

 頼朝が急死した後の2代将軍・頼家(よりいえ)の手腕を危惧した時政は、頼朝の御台所・政子などと相談して宿老13人による合議制を敷いた。これに反発した頼家は、妻・若狭局の父親・比企能員(ひきよしかず)とその一族を擁して対抗しようとした。

 

 時政は政敵となった比企能員の勢力を抑えるために画策する。先ず、頼家が重病となった機会を捉え、政子と謀って将軍機能を二分して「全国守護並びに関東28国の地頭頭を頼家嫡子・一幡に。関西38国の地頭頭を頼家の弟・千幡(実朝)に譲与させる」とした。これに反対する能員は、病気が快方に向かった頼家と「北条討伐」を協議する。これを知った政子が動いた。結果として、時政は能員の機先を制して誅殺してしまう。戦闘態勢に入った比企一族も頼家の嫡子で能員には孫に当たる一幡も滅ぼされる。頼家も伊豆・修善寺に幽閉された後に殺されることになる。

 

 政治の頂点に立った時政には、後妻・牧の方がいた。牧の方の生んだ娘の一人が源氏一門に連なる平賀義信の子・朝雅(ともまさ/頼朝の猶子でもある)と結婚していた。この朝雅は京都にいて朝廷にも接近していた。朝雅は有力御家人を排除しようと動き、その讒言(虚偽の悪口雑言)によって畠山重忠(はたけやましげただ)が一族もろともに滅ぼされた。

 

 この朝雅を、牧の方は3代将軍・実朝に替えて将軍にしようと企んだ。そこには「実朝暗殺計画」まであった。その企みに乗った時政であったが、政子と義時がこれを阻んだ。時政は失脚して、伊豆に隠棲する。平賀朝雅は京都で成敗された。時政は、失意のまま建保3年(1215)正月6日、伊豆で死去。享年78。

 

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過去記事

江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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