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後白河法皇~ 源平の武将を操り続けた “ 謀略家 ” ~

『鎌倉殿の13人』主要人物列伝 第7回


保元の乱、平治の乱にかけて武家を徹底的に利用し自己の勢力を拡大。その後、次々と台頭する平清盛、木曽義仲、源頼朝と政治的駆け引きを繰り返し、朝廷の地位を守った稀代の謀略家。その事績を追う。


 

鎌倉幕府が整備した街は現在の鎌倉へと受け継がれている。

 

「院政」というのは、天皇を辞めた上皇・法皇が院庁において国政を行うことを指す。この政治形態は、平安時代末期の白河上皇によって開始された。院政を最もうまく利用して、武士団を操り(対立・妥協を繰り返し)続けたのが後白河上皇(院/ごしらかわほうおういん)であった。

 

 白河院は、大治2年(1127)9月11日、鳥羽上皇の第4皇子として誕生した。近衛(このえ)天皇の死去に伴い、久寿2年(1155)7月に践祚(せんそ)した。 だが、この践祚が異母兄・崇徳(すとく)上皇には不満であり、保元の乱(1156)の一因になった。後白河院は、平清盛・源義朝(よしとも)らの武力を使って崇徳上皇・藤原頼長(よりなが)らの敵に打ち勝った。この後の保元3年(1158)8月に二条天皇に譲位して上皇となり、院政を開始。

 

 その院政時代は、一時の中断はあったが、二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽の5人の天皇を通し30余年に及ぶことになる。

 

 上皇は藤原信西(しんぜい)を重用するが、これが平治の乱(1159)に繋がり、信西を殺した義朝は、清盛によって倒される。平氏全盛時代がやって来ると、上皇は清盛と計って反対派を抑え政治の実権を握った。一方で、「英雄並び立たず」で、清盛との対立は深まった。

 

 治承元年(1177)には、法皇の近臣が平家打倒の密謀を企てた「鹿ヶ谷(ししがたに)事件」が起きて、治承3年には清盛によって上皇は幽閉される。これが、第2皇子・以仁王(もちひとおう)の挙兵に繋がり、頼朝や義仲(木曽)ら各地の武士による平氏打倒の挙兵となる。

 

 頼朝が挙兵した翌年の養和元年(1181)、高倉天皇・平清盛が相次いで没すると、後白河院は勢力を回復し、院政を再開した。その後は、平氏を打ち破り鎌倉政権を樹立する頼朝と手を握るが、頼朝とも対立し、平家を全滅させた源義経を、頼朝との軋轢に利用するが失敗。

 

 建久元年(1190)に上洛した頼朝と面会した後白河院は、頼朝を「日本国総追捕使(ついぶし)」として、国家の軍事警察権を担当させることにした。頼朝を認めるしかなかったからであった。だが、これは長い乱世に終止符を打つことになり、政局の一定の安定をもたらせたことに繋がった。

 

 上洛した頼朝と面会から2年後の建久3年(1193)3月13日、後白河院は病没した。66歳であった。一方で芸能を好み、今様を好きだった後白河院の文化性を示す一冊に、今様を集大成したて編纂した『梁塵秘抄』(りょうじんひしょう)がある。

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過去記事

江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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