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源頼家~ 権力闘争に巻き込まれ暗殺された“2代将軍” ~

『鎌倉殿の13人』主要人物列伝 第10回


13人の御家人の合議制で補佐された源頼家は、本当に暗愚な将軍だったのか? 鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』で酷評されたその人物像に迫る。


 

鎌倉幕府が整備した街は現在の鎌倉へと受け継がれている。

 

 源頼家(みなもとのよりいえ)は、頼朝の嫡男として養和2年(寿永元年・1182)8月に鎌倉の比企能員(ひきよしかず)邸で誕生した。頼朝は安産を祈って御家人に命じて若宮大路の段葛(だんかずら)を築造させたという。幼名は万寿(十万ともいう)、母は頼朝の正室・北条政子である。鎌倉殿(将軍)の嫡男として大事に扱われた。御家人の代表的存在であった比企能員の妻と梶原景時の妻などが乳母として、頼家を育て上げた。頼家は、源家の嫡流として武技にも優れ、いずれは諸将を率いる青年武将として順調に成長した。

 

 正治元年(1199)正月、父・頼朝が急逝すると、僅か18歳にしてその家督を継ぎ鎌倉殿の地位を得た。建仁2年(1202)正月に、正式に征夷大将軍となる。21歳にして、鎌倉幕府の第2代将軍となった。

 

 だが、思い切り実力を振るうにも、祖父・北条時政や叔父・義時、さらには幕府創業以来の有力御家人などが、その独裁権に待ったを掛けた。まだ若い頼家では訴訟や政治などに満足に対応できないとして、頼家が家督を相続した2カ月後の4月には、13人の宿老会議ともいうべき合議制が組まれたのだった。表向きは、若い将軍・頼家を補佐するということであったが、実際には独自に振る舞おうとする頼家への抑制であった。

 

 ところが頼家は、これに反発して、合議制が組まれた8日後には自分が重用していた小笠原長経・比企時員(ときかず)・中野能成(よしなり)など8人の側近について「鎌倉で彼らにたとえ狼藉があっても敵対してはならない。もしこの命令に背く者があれば罰する」という命令を出した。この常軌を逸した反発ともいえる命令に誰もが驚いた。しかも7月には頼朝以来の有力御家人であった安達盛長の嫡男・景盛の側室の1人を奪うという言語道断の行為に出たのだった。

 

 建久2年(1198)比企能員の娘・若狭局が頼家の長子・一幡(いちまん)を生んだ。そして、頼家は権勢を振るい始めた祖父・時政率いる北条一族を嫌い、これに対抗できる存在として妻・若狭局の父・能員の比企一族を重用するようになった。時政は、これを警戒して能員と一線を画した。

 

 頼家が急病を発し重篤になった建仁3年(1203)、時政は政子と謀って「もし頼家が亡くなったら、その子・一幡と頼朝の二男・実朝(千幡)とに諸国の地頭職を分譲する」という案を出した。これに能員が反対し、結果として能員と比企一族は北条勢と有力御家人らに攻められて殲滅させられた。

 

 孤立した頼家は出家させられ、伊豆・修善寺に幽閉されたが、その翌年の元久元年7月18日には時政の討手によって暗殺された。享年23。為す術のないままの死であった。

 

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過去記事

江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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