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北条義時~ “ 執権北条家 ” の基盤を創り上げた冷徹な政治家 ~

『鎌倉殿の13人』主要人物列伝 第9回


大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の主人公である北条義時。従来は「権謀術数を駆使し鎌倉幕府の実権をにぎった謀略家」のイメージで語られていたが、最新の研究成果では、本格的な武家政権を確立した人物として再評価される。その実像とは?


源平合戦以降、義時自身が合戦に従軍することは少なく、頼朝の側近として鎌倉でその政務を補佐する。その間、頼朝の政治手腕や家臣統制術を吸収。辣腕政治家として基盤を形成した。イラスト/宇野市之丞

 北条義時(ほうじょうよしとき)は長寛元年(1163)、北条時政の二男として伊豆に生まれた。源頼朝が伊豆に配流されてから3年後のことである。幼名を江間(えま)小四郎という。生まれた場所の地名から名付けられた。義時について『増鏡』は「心も猛しい、魂勝れる者」と書く。胆力があって、一定以上の器量を持っている、ということである。事実、義時は頼朝の挙兵以来を共にする中で、果断な性格で物事を進め、冷静な洞察力に基づく計画性、ある意味では冷徹といえるほどの強い意志、機敏な政治性などを身に付けていった。

 

 頼朝が挙兵して敗れた「石橋山合戦」に18歳で参戦した義時は、この戦いで兄・宗時(むねとき)が討ち死にしたため、以後を北条氏の嫡男として扱われるようになった。そして、頼朝が最も信頼する側近の1人、若い御家人になっていった。それは姉・政子が頼朝の正室であることも理由ではあったが、義時が実力者の一端を示していたことも確かだった。

 

 一ノ谷の合戦後に、依然として瀬戸内海から九州方面に勢力を誇っていた平氏一門に対して頼朝は、弟・範頼(のりより)を追討使(ついとうし)として1千騎を派遣したが、その中には若い義時の姿もあった。初の遠征であり鎮西・西海という遠い場所での戦いであった。義時の人間形成の時期は常に頼朝と共にあった。頼朝の人格が義時には大きな影響を与えていたと思われる。

 

 建久10年(1199)、頼朝が急死した後にその嫡男・頼家が2代将軍位を継いだ。

 

 この時、父・時政が主導した「合議制」のメンバー13人に、ただ1人、30代という若さで義時は入っている。

 

 実は、北条氏は頼朝の鎌倉幕府成立には大きな力があったが、中小豪族の1つに過ぎず、三浦・和田・小山氏らのように一族が繁栄し、大きな武力や経済力を持った氏族ではなかった。その北条氏が、幕府における実権を奪取するためにどうすればいいのか。結果として、時政・義時父子は有力御家人同士の争いを巧みに利用して、梶原・畠山などの討伐・滅亡に加担した。

 

 さらに義時・時政は、2代将軍・頼家(よりいえ)のバックボーンでもあった比企能員(ひきよしかず)一族を滅ぼし、頼家をも殺す。だが、3代将軍・実朝の時代になると、今度は父・時政が将軍交替を画策する。これを姉の政子と共に未然に防いだ義時は、時政とその家族を伊豆に幽閉して北条氏の権力を握り、さらに北条家として2代目の執権の地位を確立した。

 

 建保7年(1219)1月に起きた、頼家の二男・公暁(くぎょう)による実朝暗殺には様々な謎があるとされる。実力者であった御家人・三浦義村が黒幕とされるが、義時自身も黒幕ではないか、と疑われてもいる。真偽は不明のままである。

 

 この後の承久3年(1221)、後鳥羽上皇による倒幕事件「承久の乱」が起きる。この乱を、政子の協力も得て勝利した義時は、執権として、さらには幕府政治そのものを安定させた。こうして北条氏による鎌倉幕府の政治体制を創り上げた義時は、乱が終息して3年後の元仁元年(1224)6月13日に急逝する。義時は62年の生涯を風のように走り抜けた。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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