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大江広元~下級貴族であった男はなぜ頼朝のブレーンとなったのか?~

『鎌倉殿の13人』主要人物列伝 第11回


源頼朝の命を受け、鎌倉幕府の政治、法律、統治体制などの基盤をつくった男は、もとは京都の下級貴族であった。幕府を影で支えたテクノクラート(技術官僚)の人物像に迫る。


 

鎌倉幕府が整備した街は現在の鎌倉へと受け継がれている。

 

 大江広元(おおえのひろもと)は、久安4年(1148)に京都で誕生した。中原家の養子になって「中原姓」を名乗ったが、後に「大江姓」に戻った。いくつかの職域を歴任した文官だが、下級官僚に過ぎなかった。広元は、元暦元年(1184)、政務に通じた人材を京都に求めた源頼朝の招きに応じて朝廷の官を辞して鎌倉に下向した。鎌倉では新設された公文所(文書の扱い・税の徴収などを行う役所)別当(長官)になった。

 

 広元は、この後常に頼朝の側近にあって、その優れた政治的見識をもって、鎌倉幕府の政治運営を補佐し続けた。広元は、頼朝の信頼が厚かったせいもあって、頼朝に対する多くの取り成しをやっている。頼朝の弟の義経・範頼(のりより)、平維盛(これもり)の息子・六代禅師などの上申書は、広元の手を通じて行われている。

 

 広元は、鎌倉幕府と公家政権(朝廷)との政治折衝に関係し、特に頼朝の名代として幕府を代表する形で事に当たった。京都の公家たちも広元については「頼朝の腹心専一の者」と称していた。これは、頼朝に好かれていたということだけではなく、広元の見識を頼朝が高く評価していたとともに、広元が下級とはいえ、朝廷(貴族)の出身という立場も、頼朝、公家双方から信頼される要因であったろう。

 

 頼朝の政治について広元は、事の大小を問わず関係していた。だから広元の意見は頼朝が信頼して容(い)れた。いわば、絶大な信頼と期待とを頼朝から寄せられていたのが大江広元という存在であった。

 

 頼朝の信頼厚い広元は、開設された鎌倉幕府の政所(幕府の財政・庶務を司る役所)の初代長官に抜擢された。この政所には、多くの文官が採用されて文章などの様式も決定された。つまり、文書の形式の上での官僚的な制度化も進むことになる。これによって、御家人とは違う立場の(文筆を主とする)側近官僚組織が出来上がる下地になった。頼朝が死亡して、頼家が2代将軍になると、宿老13人の合議制が出来上がった。広元も文官としてこれに加わったが、他の御家人たちとは一線を画して扱われた。

 

 この後、御家人同士の勢力争いや謀叛(むほん)などがあった。表面上は一貫して中立を保ちながら、北条氏(時政・義時)とは協調を保つ。言い方を換えれば、北条氏側が頼朝の側近であった実力者・広元の取り込みを図ったともいえる。

 

 広元の晩年に、大きな政治事件が続出した。3代将軍・実朝の暗殺、承久の乱(承久3年・1221)である。後鳥羽上皇による倒幕運動である。この時、70歳をいくつか越えていた広元は、箱根・足柄を固めて守備に専念するという消極策に対して「運を天に任せて軍兵を京都に派遣すべき」と積極的攻撃策を主張した。結果として広元の積極策を採った幕府軍は京都を制圧した。

 

 この乱から4年後の嘉禄元年(1225)6月10日、広元は波乱に富みながらも意義深い78歳の人生を閉じた。

 

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過去記事

江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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