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安達盛長~配流中の源頼朝に仕えた生え抜きの御家人~

『鎌倉殿の13人』主要人物列伝 第16回


頼朝挙兵時から従っていた数少ない家臣の1人である安達盛長(あだちもりなが)。後にその功が認められ、2代目将軍・源頼家を支える13人のメンバーにも選ばれた。知られざる盛長の活躍を解き明かす。


頼朝挙兵の際、味方を募るべく東国武士への説得に尽力。外交能力に優れた一面も発揮した。イラスト/宇野市之丞

「藤九郎」を称した安達盛長は、その出自もはっきりしない。ただ、源頼朝の挙兵以前、伊豆に配流された当時からずっと頼朝に仕えた人物である。そうした関係は、頼朝の乳母(めのと。生母に代わって幼児を育てる女性)の1人であり、頼朝に暖かい援助を送り続けた比企尼(ひきのあま)の長女を娶(めと)っていたことから始まったと見られる。いくつかの資料などからは、保延元年(1135)生まれともされる。恐らく、武蔵周辺の在地武士団の1人ではなかったか。

 

 いずれにしても盛長は、かなり早い時期から頼朝に仕えていたことは確かである。治承4年(11806月、盛長は頼朝の挙兵に当たって、相模国など源氏にゆかりのある武士団を招致するために、使者として各地を回った。また、頼朝が緒戦での敗北後に安房に上陸して下総の豪族・千葉常胤(つねたね)の協力を求めた時に、使いとして立ったのも盛長であった。頼朝が鎌倉幕府を開くまでの間、盛長は常に頼朝の側近として尽力した。その功績は大きく、恩賞に浴した。

 

 盛長は、鎌倉幕府草創期の実力者としても、頼朝から特に信頼が厚く、しかも親密な関係を持った御家人であった。幕府が開かれてからも頼朝は、時々盛長の自宅を訪れている。懐旧談に花を咲かせたことが推測される。

 

 その後、盛長は文治5年(1189)の奥州征伐にも頼朝に従って参戦し、さらに2度に渡る頼朝の上洛にも供奉(ぐぶ)した。盛長は正治元年(1199)正月、頼朝が没した時に出家して「蓮西」を名乗ったが、頼家が将軍となった際に出来上がった「合議制の13人」にも加わっている。これは幕府の中枢に参加する、という意味を示す。それほどに盛長が御家人の中で重い立場にあったことが分かる。

 

 三河国の守護となった盛長は、梶原景時追放事件の際には、和田義盛とともに、最も強硬派の立場を取る1人であった。盛長は、梶原弾劾状を作る時に、三浦義村に対して「早く弾劾状を作って新将軍に出すべきである。景時1人を庇うような態度をするか、それとも多くの御家人たちの心の内を確かめるべきか、新将軍の裁可を得るべきではないか」と迫ったという。これは、盛長が景時を憎むばかりでなく、幕府創立以来の功臣や宿老を軽く見る新将軍・頼家の態度にも不満や怒りを持っていて、これを機会に幕府を支えてきた、さらにはこれからも支えていく御家人の力を誇示したかったとも思われる。

 

 だが、盛長が歴史の上に現れるのは、この弾劾状が最後になる。盛長は、頼朝が死去して14カ月後の正治2年(12004月に66歳で病没した。

 

 

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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