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和田義盛~北条氏と対立した中で 最も傑出した武将~

『鎌倉殿の13人』主要人物列伝 第19回


権謀術数を駆使し台頭した北条家。その首謀者である北条義時に、和田義盛(わだよしもり)は反旗をひるがえした。その事績と「和田合戦」の経緯に迫る。


 

鎌倉幕府が整備した街は現在の鎌倉へと受け継がれている。

 

 頼朝・頼家・実朝の鎌倉3代に仕え、侍所(御家人の統制機関)の別当(長官)として活躍した和田義盛こそ、幕府では最も傑出した武将であった。相模国随一ともいえる大豪族・三浦氏の統帥・義明の孫として久安3年(1147)に生まれ、三浦郡和田に住んだことから「和田氏」を称した。一族や武将が住み着いた場所の地名と名字は不可分の関係にあって、地名を名字として用いることは、平安時代から始まっていた。これ以降、武士が地名を名字として用い、世襲的に使うようになっていったのが鎌倉時代前後であった。

 

 義盛は、治承4年(1180)の頼朝旗揚げの時には(数え年で)34歳という壮年に達していた。三浦一族としてその後の戦さにも加わっている。一度は敗退した頼朝の再挙に際しては、三浦一族の軍事力は最も頼みとするものであった。

 

 その後、頼朝は鎌倉に本拠を定め、軍事政権として内乱の過程で成立した鎌倉幕府において、頼朝とその麾下に入った御家人という存在は主従関係で結び付いていた。

 

 すると、こうした御家人たちを統制する機関が必要になった。それが侍所であった。別当には、最も軍略に優れ武勇の士である者が選ばれた筈であり、初代長官から実朝時代まで3代に渡って別当として君臨したのが義盛であった。その後の頼朝の戦いにも参戦し、御家人の参戦動員も侍所別当として義盛がすべて命令した。

 

 合戦に当たっての義盛の武技は弓矢に優れていたという。頼朝が弓馬に優れ忠節なる御家人22人を選出した際にも義盛は選ばれているほどである。まさに義盛は、頼朝に忠実で奉仕し、功を重ねた。さらに頼朝の耳目の役割をも果たした。

 

 頼朝が死亡して頼家が将軍になると、宿老13人の合議制が生まれた。この13人に義盛は当然名を連ねている。梶原景時の謀叛(むほん)事件には積極的に動き、景時失脚後、義盛はその影響力を強めた。北条氏の権力の前に立ち塞がる御家人は、比企能員(ひきよしかず)と和田義盛など数人に過ぎなくなった。比企氏討伐に関しては、義盛は北条時政・義時父子に加担して「政敵・比企氏」の排除を計った。

 

 だが、北条氏の権力が大きくなり、独裁制を強化するようになると、義盛との対立は避けられなくなった。この後、畠山重忠(はたけやましげただ)追討に続く「牧氏陰謀事件(時政の後妻・牧氏による娘婿・平賀朝雅を将軍に擁立しようとした謀叛未遂事件)」によって時政は失脚する。その後の北条氏の権力(執権を含め)は義時が受け継いだ。

 

 しかし、それでも義盛は鎌倉幕府創立以来の功臣であり、御家人の最長老であり、しかも御家人に頂点に立つ侍所別当であり続けた。独裁権を狙う義時は、策を用いて義盛を挑発する。結果として挑発に乗った義盛は、同族の三浦一族の長である三浦義村を引き入れて北条氏打倒の挙兵を計る。「和田の乱」である。

 

 だが、一度は同心した三浦一族だが、結局義盛の誘いを退けて変心し、義盛は孤立した。とはいえ、この乱には横山・土尾・山内・渋谷・毛利・梶原・土肥・愛甲・逸見氏などの御家人が和田側に加わっていた。建保元年(1213)5月2日、「君側(くんそく)の奸(かん)を討つ」として兵を挙げた義盛の乱は、4日の明け方には壊滅し、和田一族は滅亡した。討ち死にした義盛は67歳であった。

 

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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