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八田知家~頼朝と兄弟説もある常陸国守護~

『鎌倉殿の13人』主要人物列伝 第21回


足立遠元(あだちとおもと)と同様に、源義朝から源実朝まで4代にわたり源氏に仕えた八田知家(はったともいえ)。意外と知られていない、その人物像を解き明かす。


 

鎌倉幕府が整備した街は現在の鎌倉へと受け継がれている。

 

 八田知家は、下野国の豪族・宇都宮氏の一族である父・宗綱、母を宇都宮朝綱(うつのみやともつな)の娘・八田局として康治元年(1142)に生まれた。

 

 一説には、本当の父親は頼朝の父・源義朝(よしとも)であるともいう。そうした説を裏付けるのが、はじめ「朝家」と名乗ったが、後に「知家」に名前の字を変えたという説であろう。義朝が下野守であったこともあり、八田一族や宇都宮一族、さらには小山一族など在地豪族との繋がりは深かった。小山政光の妻(寒河尼/さむかわのあま)は八田知家の姉であり、頼朝の乳母の1人であった。こうした縁から、知家は少年時代に早くも若武者として、保元の乱を義朝の従者として戦っている。

 

 こうした関係から、頼朝の挙兵には八田・小山・宇都宮一族がいち早く加わった。知家は果敢に戦い、頼朝から信頼される御家人となり、一族は鎌倉幕府と頼朝を支える強力な母体の1つになった。知家は、治承4年(1180)の富士川合戦後には、早くも下野国茂木郡の地頭識を安堵されている。

 

 当時の常陸国は平氏の知行国であって、本来源氏の一族であるはずの佐竹氏なども、頼朝追討を指示され、積極的に頼朝の挙兵に加わるどころか、平氏の命令の通りの行動を取っていた。いわば、常陸国は頼朝にとっては「目の上の瘤(こぶ)」のようなもので、頼朝は彼らの一掃を計った(後に、佐竹氏は武田氏以上に源氏の有力血統でありながら、源氏の継承者であることを名乗れなかったのは、この次期の常陸・佐竹氏の動向が原因ともされる)。

 

 また、頼朝は常陸国を平定した後に叔父・志田義広(しだよしひろ)や源行家(ゆきいえ)とも対面を果たすが、2人とも頼朝には協力することはなかった。それどころか、頼朝に敵対するようになる。

 

 いずれにしても、知家は平氏追討・九州渡海など、頼朝の戦いのほとんどに参戦して功績を上げる。頼朝は、奥州藤原氏(秀衡/ひでひら)にも近い場所にある常陸国のうち、信太荘・南野荘を知家に、国府を挟んだ南郡の地域を下河辺氏(小山一族)に与えた。言い方をかえれば、頼朝は鎌倉と奥州を結ぶ交通の要衝を抑えたのである。

 

 こうした経過から、知家は奥州攻めの東海道大将軍となり、義経・藤原氏討伐にも戦功を上げた。こうした功に対して、頼朝は知家を常陸国守護識に任命した。

 

 知家は武人だが、一方で公家の作法にも通じた文化的素養も持ち合わせていた。こうした素養から、大江広元(おおえのひろもと)・三善康信(みよしやすのぶ)などとともに、鎌倉幕府の草創期から中枢にあって、頼朝の信頼を得ていった。

 

 頼朝の死亡後も知家は幕府の重鎮として、2代将軍・頼家の親裁(自ら裁判などの裁定を下すこと)を停止するための「合議制の13人」の1人にもなっている。

 

 知家の没年は不明だが、その没後も嫡子・知重(ともしげ)、小山政光の子・結城朝光(ゆうきともみつ)など一族が幕政に参加して幕府の中枢として幕府を支え続けた。これは、有力御家人同士が、潰し合う争いが激化して北条氏の権力が確定する中で、八田知家が賢い立ち回りをしたことを示すものであろう。

 

 

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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