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足立遠元~頼朝の父・義朝の時代からの生粋の関東武士~

『鎌倉殿の13人』主要人物列伝 第20回


源頼朝の父・義朝から3代将軍・実朝まで4代にわたって源氏に仕えた足立遠元(あだちとおもと)とはどのような武将だったのか? その実像に迫る。


 

鎌倉幕府が整備した街は現在の鎌倉へと受け継がれている。

 

 源頼朝にとっては、足立遠元は父・義朝の時代から自分を支えてくれた武士であった。

 

 平治元年(1159)12月に起きた「平治の乱」には、義朝に従って平清盛と戦った。この時に、13歳だった頼朝は従5位下・右兵衛権佐(うひょうえ・ごんのすけ)という位階・官位に就いていた。伊豆に配流された頼朝を周辺の豪族などが「佐殿(すけどの)」と敬称を以て呼ぶのは、この「右兵衛権佐」という官位によるものである。この乱で、遠元は頼朝の兄・義平が率いる源氏17騎の1人として奮戦している。

 

 義平は、若い頃に義朝が関東に下向した際に土地の豪族の娘(相模国の在庁官人・三浦義明の娘ともいう)との間にもうけた長男であるが、母の出自によって頼朝が嫡男とされた。この義平の下で遠元は関東武士の1人として、平家と戦ったのである。

 

 遠元は、藤原北家の足立氏の出身であるが、生没年は不明である。足立氏の本拠は、現在の東京都足立区から埼玉県北足立郡に跨る地域であり、遠元の父・藤原遠兼(ふじわらのとおかね)がこの地域に住み、この遠兼の代から「足立」の地名をそのまま姓にした。なお、安達盛長は遠元の父・遠兼の弟であり、遠元には年下ながら叔父ということになる。

 

 頼朝の父親時代からの、こうした関係から遠元は配流の頃から頼朝に心を寄せており、旗揚げから平家滅亡までの頼朝の合戦を戦ったが、それ以前から頼朝の命を受けて動いていた。それが、富士川合戦後の頼朝による本領安堵(本領の所有権を認められる)最初の事例になったが、遠元が頼朝の信任が厚かったことを示す例とされる。

 

 遠元は、鎌倉幕府の公文所(公文書の管理などを行う役所・後の政所)にも寄人(役人)として登用され、合戦の功に対しては右馬允(うめのじょう)という官位を与えられた(左衛門尉ともいう)。頼家が2代将軍になった際の「13人の合議制」の1人にも選ばれている。

 

 遠元は、御家人であり関東武士団の1人ながら、武家社会ばかりでなく、公家などの社会にも深い繋がり・人脈を持っていた。そうした関係から、朝廷の後白河法皇の側近・藤原光能(ふじわらのみつよし)には娘を嫁がせている。さらには、御家人の畠山重忠や北条時房(ほうじょうときふさ)にも娘を娶(めあわ)せているし、これらの娘はそれぞれ男子を産んでいる。

 

 遠元は、武士出身・御家人でありながら行政事務の取扱にも手慣れた対応ができる文官的な資質をも有していた。、なお、遠元については『吾妻鏡』によれば、承元元年(1207)3月3日の「闘鶏会参加」の記事に出席したことが最後に、こうした資料から姿を消す。恐らく70歳代の高齢になっていたと思われるので、この前後に死没したと見られている。

 

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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