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「初代執権」就任により北条時政が得た地位と確執

鎌倉殿の「大粛清」劇⑨

時政邸で主従関係の更新と確認が行われ御家人に代替わりの所領を安堵

北条時政
「守護・地頭の設置」を後白河法皇に認めさせる事に成功する(文治の勅許)。制度創設の政治実行力は高かった。都立中央図書館蔵

 建仁3年(1203年)9月10日、比企氏を粛清した北条時政は新将軍千幡(せんまん)を尼御台所(あまみだいどころ)政子のもとから自邸である名越邸に迎えた。そこで諸御家人に対して代替わりの所領安堵がなされた。将軍と御家人の主従関係の更新と確認である。

 

 10月8日にはやはり時政邸で千幡の元服の儀が執り行われ、千幡は「実朝」と命名された。実朝元服の翌日10月9日に時政邸で政所始(はじめ)めが行われた。この日北条時政が初代執権に就任したとされる。時政が就いた執権とはどのような地位と権限を言うのであろうか。

 

 権門当主の中でも公卿(くぎょう/三位以上の貴族と参謀)の地位にある者は荘園経営や自領に関わる紛争解決のために家政機関を設け、職員である家司(けいし)を指揮しながら一定の権力を行使することができた。その中枢にあったのが政所である。頼朝もこれに倣い、従二位に叙され公卿に列すると政所を開設した。

 

 このように政所は幕府固有の機関ではなく、荘園体制の中で各権門が国家から請け負った権力を執行する機関なのである。したがって「将軍家政所」と呼ぶのが正しい。ところが、政所を行った時の実朝は従五位下であった。正式には政所を開設する資格をもたない。このことから鎌倉の政所が御家人体制を機能させる「幕府政所」としてすでに常置されたと見られる。

 

 将軍家政所では家領である関東御領の経営はもちろん、御家人への所領供与や安堵、判決の執行を行った。すなわち将軍権力の中枢を担ったのである。政所には長官である別当を筆頭に、令(れい)・案主(あんず)・知家事(ちけじ)といった職員が置かれた。別当には御家人の中から有力な武士と有能な文士が選ばれ、それも一度に複数人が任命された。

 

 そして、実朝の政所始めの日、大江広元(おおえひろもと)とともに政所別当に就任したのが北条時政である。大江広元は文人御家人であるから、そもそも職能としての政所別当に相応しい。武人御家人である時政の別当就任は将軍の外祖父としての地位の可視化であり、何よりも御家人の筆頭の地位に上り詰めたことを意味している。

 

 以後、元久2年(1205)閏7月までのおよそ2年間、元服したとはいえいまだ12歳の鎌倉殿を北条時政が後見しつつ、幕政を主導することになった。その様子を慈円(じえん)は「関東は幼い実朝の祖父北条の世になった」(愚管抄)と評した。

 

 将軍が裁可した施策は文書(もんじょ)で執行された。特に所領の安堵や恩賞の給与など御家人にとって永続的な効力が期待される文書には、将軍が直に花押をなす「下文(くだしぶみ)」が用いられた。下文は将軍と御家人の主従関係を目で見、音声で表すことのできるツールとして極めて重要であったから、これを受けた御家人は家の重書として代々相伝した。

 

 ところが、政所が開設されると、将軍が直に署判(しょはん)する様式ではなく、別当以下の職員が連署する「政所下文」という様式が採用された。これに不満をもつ御家人もあったが、権門の権力の執行方法としてはこれが正続な形である。また、これらは「関東長者」たる鎌倉殿の下文なので関東下文と呼ばれる。

 

将軍の命を奉じるのは形ばかりで時政の専横ぶりが目立つ

 

 ところが、この時期の幕府の施策の多くは、時政が「遠江守平(花押)」と単独で署判する文書を用いて執行されている。この文書は本文の末尾が「鎌倉殿の仰せにより下知する」という書留文言(かきとめもんごん)で締めくくられることから「下知状(げちじょう)」と呼ばれる。下知状は文書の内容が将軍の意思であり、その命を御家人筆頭たる時政が伝達するという奉書の一様式である。権門当主の意思を家司が奉じる奉書には当時「御教書(みぎょうしょ)」という様式があった。

 

 しかし、御教書は三位以上の公卿家でなければ発給することができず、また日付のみで年次を記さない決まりであることから、所領安堵や恩賞給与のように永く権利を証明する内容には適さなかった。

 

 時政は後の執権・連署制期に完成する「関東下知状」と呼ばれるこうした様式の文書を、実朝の政所始より前の9月10日にはすでに用いている。こうした事実から、時政の権限が政所別当の筆頭、すなわち「執権別当」の地位に基づくものであるとし、これをもって時政が鎌倉将軍家の初代執権に就任したと見做すのである。

 

 ところが執権時政の政治はたちまちほころびを見せる。第1に御家人たちの反発である。時政の「関東下知状」は地頭の任命、所領の相続・譲与の承認、裁判の判決、さらには主従制の根幹である恩賞の決定と給与にまで及んだ。このことから、将軍の命を奉じるのは形ばかりで、実際には「遠州下知」「遠州御書」などと呼ばれた。このことが御家人たちの目には時政の専横と映ったであろうことは想像に難くない。

 

 第2には後武蔵国と畠山重忠をめぐる対立である。第3は政子との対立である。将軍実朝は時政の外孫であると同時に「尼御台所(あまみだいどころ/初代将軍の妻)」の実子でもある。この対立には時政後妻の牧の方が深く絡んでおり、時政を窮地に追い込むことになる。

 

監修・文/簗瀬大輔

『歴史人』20227月号「源頼朝亡き後の北条義時と13人の御家人」より

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