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「曽我兄弟の仇討ち」の兄・十郎が愛した虎御前と「虎が雨」の由来

鬼滅の戦史90


父の仇・工藤祐経(くどうすけつね)を見事討ち果たした曽我兄弟。その兄・十郎には、愛しの女性がいた。その名は、虎御前(とらごぜん)。十郎の死後、40数年にわたって彼を供養し続けたという。彼女はその思いが念となって凝り固まった挙句、石(虎が石)になったとまでいわれるなど、伝説の女性として語り継がれていった。いったい、どのような女性だったのだろうか?


 

「大磯虎御前」「曽我十郎祐成」「曽我五郎時宗」歌川豊国筆/都立中央図書館蔵

天晴れな曽我兄弟の敵討ちと仁田忠常

 

 以前の記事(『見事、父の仇を取った曾我兄弟が祟りに出た理由とは?』)で紹介した「曽我兄弟の仇討ち」の続きである。

 

 源頼朝が催した富士野の巻狩りにおいて、父の仇・工藤祐経を見事討ち取った曽我十郎祐成(すけなり/兄)と五郎時致(ときむね/弟)。二人が本懐(ほんかい)を遂げたのが、建久4年(1193)528日のことであった。

 

 その直後、兄が御家人の仁田四郎忠常(にったただつね)に討たれて斬死、弟は御所五郎丸に取り押さえられて梟首(きょうしゅ)。その際、御家人の筑紫仲太が、わざと切れ味の悪い刀でギコギコと擦るように斬ったことで、これを恨んで祟り出た…というところまでが、その時の話の大筋である。

 

 弟が祟り出たというのが史実かどうかはともあれ、その後曽我兄弟の天晴れな心がけが語り草となり、舞台となった富士野(富士宮市)などでは、曽我八幡宮なる神社まで数多く鎮座するなど、信仰の対象とまでなっていったのだ。

武勇で名を残した仁田忠常は、源頼家に仕えていたが、北条派と誤解されて粛清される。『新形三十六怪撰』「仁田忠常洞中に奇異を見る図」月岡芳年筆/都立中央図書館蔵

相模国大磯にいた虎御前を訪ねる曽我十郎

 

 しかし、武家にとっての美事であったとはいえ、二人の死を儚(はかな)む御仁もいた。言わずもがな、兄弟の母である。幼少の頃に敵討ちを自ら勧めたこともあったが、いざ我が子の死が現実のものになってみると、受け入れ難いものであった。涙にくれる日々が続いたことは言うまでもない。

 

 そしてもう一人、忘れてならない人がいる。それが、十郎が愛して止まなかった大磯の遊女・虎御前なる女性である。二人が出会ったのは、十郎20歳、虎17歳の頃であった。

 

 もともと、相模国海老名(えびな)郷にいた宮内判官家永の娘で、平治の乱に敗れて東国へと落ち延びていた者である。その男が、平塚の宿の夜叉王(やしゃおう)という遊女の元に通って、女子一人をもうけた。それが後の虎御前であった。5歳の頃、大磯の遊女が引き取って育てたという。

 

 一方、十郎の方は、仇討ちを前に正妻を娶(めと)ることを憚(はばか)り、遊女を妻として選んだものの、虎御前と出会って一気に恋心が芽生え、共々愛し合う仲になったのである。

 

 十郎が富士野へと仇討ちに出かける前夜、生きて再び出会うことが叶わぬと悟った二人、その切ない思いが、『曽我物語』に克明に記されている。涙を禁じえぬ、名場面が続くのであった。

 

 そして、十郎が語ったがごとく、見事本懐を遂げたものの斬死。その知らせは、大磯の虎の元にもたらされた。覚悟していたこととはいえ、ただただ、泣き伏すばかりであった。

 

 しばらくしてから、兄弟の母が住む曽我の里を訪ねて百か日(ひゃっかにち)供養を営んだ後、箱根権現(ごんげん)社において出家。諸国の霊場をめぐりながら、兄弟の菩提を弔ったという。大磯に戻ってからは、高麗寺山(高麗山、平塚市と大磯町に跨る)の麓に庵(いおり)を結んで、兄弟の供養を続ける毎日。ついには、十郎の死から40数年の後、63歳の生涯を閉じたと記されている。

 

曽我兄弟の兄・十郎を愛し供養し続けた虎御前。『曽我物語図会』歌川広重筆/国立国会図書館蔵

虎の死とともに、十郎も昇天?季語「虎が雨」として残る事に

 

 この虎御前の死に関して、実は気になる一文が『曽我物語』に記されている。とある日の夕暮れ時のこと、彼女が庭の桜の小枝が斜めに垂れ下がっているのを十郎と見間違えて駆け寄り、これに抱きつこうとして、前のめりに倒れてしまったというのだ。

 

 この時の怪我がどの程度のものだったのかは記されていないが、それが元で病となり(どのような病かも不明)、結局亡くなってしまったという。見間違えたというよりも、むしろ十郎の霊が、虎御前を迎え入れるために現れたのではないか?と、そんな気もしてしまう。そして、彼女の死とともに、彷徨(さまよ)う十郎の霊も、仲良く天に登っていったと信じたいものである。

 

 ちなみに、十郎が亡くなったのは、旧暦の528日のこと。後世、この日降る雨のことを、虎が雨と呼んだという。それは、言わずもがな、十郎を思って悲しむ虎御前の涙である。ただし、二人が仲良く昇天したとすれば、それはもはや過去の話というべきか。

 

 また、彼女の十郎を慕い続ける気持ちは、いつしか一念となって、凝り固まったとも伝えられる。大磯町の延台寺や、足柄峠をはじめ、各地にその虎が石(虎子石)なるものが存在するというのも興味深い。

 

 そればかりか、虎御前の墓も、大分県臼杵(うすき)市や広島県東広島市、神奈川県箱根町など各地に点在する。虎御前に思いを寄せる人々がいかに多かったか、それを物語るものといえそうだ。

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藤井勝彦ふじい かつひこ

1955年大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』(天夢人)、『邪馬台国』『三国志合戰事典』『図解三国志』『図解ダーティヒロイン』(新紀元社)、『神々が宿る絶景100』(宝島社)、『写真で見る三国志』『世界遺産 富士山を行く!』『世界の国ぐに ビジュアル事典』(メイツ出版)、『中国の世界遺産』(JTBパブリッシング)など、日本および中国の古代史関連等の書籍を多数出版している。

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