源氏と北条氏の権力抗争に巻き込まれた「仁田忠常の謀反」
頼朝亡き後の謀反・抗争を巡る謎④
8月21日(日)放送の『鎌倉殿の13人』第32回「災いの種」では、比企能員(ひきよしかず/佐藤二朗)を滅ぼした北条氏が中心となり、新たな体制作りが進められる。その影で、宿老・北条義時(ほうじょうよしとき/小栗旬)が見せる非情さに息子の北条泰時(ほうじょうやすとき/坂口健太郎)は激しく反発。数々の暗殺に手を汚してきた善児(ぜんじ/梶原善)も、苦悩の色を隠せなかった。
■鎌倉政権において北条氏主導の新たな体制が始まる

静岡県三島市にある三嶋大社。源頼朝が源氏再興を祈願した社として知られる。仁田忠常の妻が厚く信仰しており、忠常が病に倒れた際には自らの寿命に代えてでも、と夫の回復を祈願した。すると、忠常は回復。満願成就したからか、妻は半年後に三嶋大社への参詣途中に船の事故に遭い溺死したと伝わる。
奇跡的に回復を遂げた源頼家(みなもとのよりいえ/金子大地)を前に、北条義時ら、北条一族は対策に追われる。まだ幼年の千幡(せんまん/嶺岸煌桜)を次の鎌倉殿に据える計画に変更はないにしても、頼家をどうするのか。義時の妻であり、比企氏の生き残りである比奈(ひな/堀田真由)に対する風当たりも強い。
一方、頼家は身辺の異変を察知していた。意識を取り戻したにもかかわらず、妻にも子にも会えず、舅(しゅうと)の比企能員も顔を出さない。宿老の北条時政(ほうじょうときまさ/坂東彌十郎)や、母で御台所(みだいどころ)の北条政子(ほうじょうまさこ/小池栄子)に尋ねても言を左右にして真相が分からない。
頼家は御家人の和田義盛(わだよしもり/横田栄司)と仁田忠常(にったただつね/高岸宏行)を呼び出して問い詰め、比企氏滅亡の顛末を知る。勝手に比企氏を滅ぼした北条氏に怒り心頭に発した頼家は、2人に時政を謀反人として討つよう命じた。
義盛はすぐさま時政に通報。頼家と時政の板挟みとなり、思い悩んだ忠常は自害した。
頼家が幕政の中心にいる限り、こうした災いが繰り返されると見た義時は、頼家を鎌倉から追放することを決断。伊豆の修善寺(しゅぜんじ)に頼家を幽閉することとした。
こうして、千幡が3代将軍に就任。後鳥羽上皇(ごとばじょうこう/尾上松也)から源実朝(みなもとのさねとも)という名を賜った千幡のもと、新たな体制が始まろうとしていた。
その頃、頼家の正室であるつつじ(北香那)の子である善哉(ぜんざい/長尾翼)のもとに、怪しげな老婆が訪ねてくる。老婆は善哉に「北条を許してはなりません」と呪詛(じゅそ)のように繰り返し囁(ささや)いて立ち去った。
老婆は、滅んだはずの比企一族の比企尼(ひきのあま/草笛光子)だった。
■仁田忠常は北条氏によって討伐された〝謀反人〟
源頼家が、和田義盛と仁田忠常に北条時政討伐を命じたのは、自身の後ろ盾だった比企能員を一族もろとも討ってしまったからだ。
この2人が選ばれたのは、腹心の梶原景時(かじわらかげとき)亡き後、家人たちをまとめていたのが13人の宿老の一人である義盛だったことから。忠常に関しては、当時、最も信頼できる忠臣と見ていた頼家が、時政討伐を命じることで、その忠誠心を改めて試したのではないか、と考えられる。
鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』によれば、命を受けた義盛は、頼家からの命令書を時政に渡して知らせた。
一方、忠常は能員討伐の褒美をもらうために、時政の邸宅を訪ねている。報酬を求めるのは能員に直接手を下したのが忠常だったので当然のことではあるが、なぜ、時政討伐の命を帯びた状態で訪ねていったのか。ひょっとすると、酒宴の席で、どさくさに紛れて時政を討ってしまおうとでも考えていたのかもしれない。
辺りが暗くなっても時政の邸宅から一向に忠常が出てこないのを怪しんだ従者は、忠常の弟である忠正と忠時に伝えに走った。
弟の忠正らは、忠常が時政討伐の命を受けたことを知っている。企てが露見して、すでに兄が時政に討たれてしまったと早合点したようだ。
復讐のために忠正らは時政の嫡男である北条義時の館を襲撃。迎撃に出た義時の家人によって返り討ちに遭い、兄弟は討死した。なお、義時は御所にいて館には不在だった。
無事に時政の邸宅から出て、自身の館へ戻る途中で一連の騒ぎを聞きつけた忠常は、「もう命を捨てるしかない」と決意して御所へ向かう。しかし、その途上で、時政の命を受けた加藤景廉(かとうかげかど)という家人に討たれて死んだ。忠常は謀反人として時政に殺されたのである。これらが『吾妻鏡』に描かれている仁田忠常の最期だ。
一方、天台宗の僧侶である慈円(じえん)の記した『愚管抄』によれば、比企能員討伐の数日後、忠常が侍所に出仕したところ、義時と戦いになって敗死したという。
時政あるいは義時、すなわち北条氏の手によって忠常が命を落としたのは間違いなさそうだ。しかし、なぜ彼が死ななければならなかったのか、いまいち判然としない。
仁田忠常は、頼朝・頼家の源氏2代にわたって忠義を認められた武士だ。それは、頼家の嫡男である一幡(いちまん)の乳母父に任じられていることからも明らか。
こうした背景から推察できるのは、北条氏にとって忠常が後々の災いとなりかねないと見られたのではないか、という点だ。自身の権力確立のために邪魔となる頼家と一幡を抹殺した北条氏は、これら父子に同情して挙兵しそうな忠常を先んじて殺した、という可能性は十分ある。
ともあれ、仁田忠常は幕府に謀反を働いたとして処罰された。本当に反逆の意思があったかどうかは定かではない。源氏(頼家)と北条氏との間の板挟みに立たされた末の最期と考えると、ドラマで描かれた自害にも等しい、あまりに悲しい結末だったといえる。