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源氏や北条氏への忠誠心が破滅を招いた「仁田氏」

北条氏を巡る「氏族」たち㉕


7月31日(日)放送の『鎌倉殿の13人』第29回「ままならぬ玉」では、頼朝の代から鎌倉を支えてきた重臣が次々に命を落とす。一方、ふとしたきっかけで、頑なだった鎌倉殿の源頼家(みなもとのよりいえ/金子大地)の心が少しずつ変化する様子が描かれた。


善哉の誕生が鎌倉の新たな火種となる

 

静岡県函南(かんなみ)町にある仁田忠常の墓(中央)。弟の忠時(右)、同じく弟の忠正の墓(左)も並んで建っている。仁田氏の菩提寺である慶音寺の近隣にあり、子孫を名乗る一族によって手厚く守られているという。

 

 討ち死した梶原景時(かじわらかげとき/中村獅童)の首が鎌倉に届けられた。

 

 その3日後、13人の宿老の長老格である三浦義澄(みうらよしずみ/佐藤B作)が、さらにその後、源頼朝(大泉洋)に最も長く仕えてきた安達盛長(あだちもりなが/野添義弘)が、相次いで息を引き取る。出家して鎌倉を離れた中原親能(なかはらちかよし/川島潤哉)を含めれば、宿老に選ばれた御家人は、早くも13人から9人に減ったことになる。

 

 これを機に権勢の拡大を図る比企能員(ひきよしかず/佐藤二朗)は、2代鎌倉殿の源頼家の後ろ盾を買って出る。しかし、逆に頼家は比企氏に対する警戒心を強めた。そればかりか、宿老たちの力が弱まっているとみて、頼家の横暴はさらに激しさを増していた。

 

 そんな頼家に、正妻・つつじ(北香那)との子である善哉(後の公暁/くぎょう)が生まれた。

 

 頼家の第2子出産に素早く反応したのは能員だ。掌握し切れない頼家に見切りをつけ、能員は比企氏の娘であるせつ(山谷花純)の生んだ子である一幡(いちまん)を次の鎌倉殿に就けるよう画策を始めたのである。

 

 一方、北条時政(ほうじょうときまさ/坂東彌十郎)と、その妻・りく(宮沢りえ)は、次の鎌倉殿に千幡を擁立することを思いつく。千幡は頼家の弟。時政の娘である北条政子(まさこ/小池栄子)の子であり、同じく娘の実衣(みい/宮澤エマ)と源頼朝の弟である阿野全成(あのぜんじょう/新納慎也)の夫婦が乳母父を務めていた。

 

 さっそく、りくは全成を呼び出し、呪詛(じゅそ)を依頼する。呪詛の対象は頼家と伝えるりくに、時政と全成は驚きを隠せない。しかし、りくはこともなげに言い放つ。

 

「命を取ろうとは思っておりません。しばらく病で伏せっていただければよいのです」

 

 建仁元年(1201)、坂東は台風被害に見舞われ、農民たちが深刻な不作に苦しんでいた。

 

 そんな折、父・北条義時(小栗旬)の命に従い、伊豆に赴いた北条頼時(よりとき/坂口健太郎)は、貸した米をめぐる代官と農民との争いを見事に解決して戻ってくる。頼時の見事な裁定は評判を呼んだが、農民たちの苦しみをよそに蹴鞠(けまり)の稽古に励んでいた頼家は面白くない。

 

 頼家は褒美として、頼時に「泰時」という新たな名を与える。しかし、「頼」は先代の鎌倉殿である頼朝からの一字であり、頼時は納得がいかない。なおかつ、頼時は頼家の側近衆から外されることとなった。

 

 頼時の無念さに心を痛めていた義時のもとに、妹の実衣が相談に訪れる。夫の全成の行動に不審な点があるという。人形を手にしていたという証言から、義時は全成が何者かに呪詛をかけているのではないか、と疑う。案の定、時政が裏で手を回していたことを突き止めた義時は、怒りに震えた。

 

 頼家が頑なに心を閉ざすのは、比企氏と北条氏の権力争いに嫌気がさしていたからだ。頼家はますます他人を寄せ付けなくなり、比企氏の娘である妻のせつも遠ざけていた。

 

 頼家に会えない寂しさを募らせていたせつは、政子に悩みを打ち明ける。政子は思いの丈を頼家にぶつけてみることを提案。せつは、政子の言葉通りに、「そばで鎌倉殿を支えたい」と、まっすぐな気持ちを頼家に伝えた。跡継ぎが一幡だろうが、善哉だろうが関係ないというせつの思いに、頼家の心は揺れ動いた。

 

 ある夜、一人でいる頼家のもとを義時が訪ねる。頼家は思わず、義時に孤独な胸の内を告白した。義時は、父を超えたいのなら、人を信じるところから始めてみては、と諭す。

 

 陰で様子をうかがっていた全成の目には、頼家の姿が鎌倉殿としてではなく、かわいい甥っ子として映った。頼家の苦しい胸中を知った全成は、時政らに依頼されていた呪詛を中断することにした。

 

 ところが、御所の床下には、全成が回収し忘れた呪いの木人形が一体転がっている。何者かが、それを拾い上げた。

 

怪奇現象が非業の最期を引き寄せた?

 

 仁田忠常(にったただつね)は、伊豆国仁田郷(現在の静岡県函南町)に勢力を誇った武士。史料によっては新田とも、日田とも表記されている。両親は不詳。

 

 治承4年(1180)の挙兵時から源頼朝に付き従い、以降、頼朝から深く信頼された人物である。

 

 元暦2年(1185)に参加した平家討伐で戦功を立て、頼朝から感状を受けた他、文治3年(1187)に生死をさまよう大病を患った時には、頼朝が自ら見舞いに訪れたというから、その信頼の厚さがうかがえる。

 

 建久4年(1193)に頼朝が富士の裾野で行なった巻狩の際には、曽我兄弟の仇討ちという大事件が勃発している。この時、忠常は兄の曽我祐成(そがすけなり)を討ち取るという功を立てた上、手負いのイノシシが暴れて頼朝に襲いかかろうとしたところを、身を挺して守ったとの逸話も残っている(『曾我物語』)。

 

 頼朝の死後、嫡男の頼家にも重用された。忠常は頼家の嫡男である一幡の乳母夫に任命されるなど、源氏二代に渡って信任が厚かったようだ。

 

 頼家のもとで働いた忠常には、こんなエピソードがある。

 

 建仁3年(12036月に、駿河国(現在の静岡県中部と北東部)に狩りに出掛けた頼家に随行した時のこと。この時、忠常は頼家の命に応じて、富士山の「人穴」と呼ばれる洞窟の探索を行っている。

 

 頼家より剣を預かり、従者5人を連れて入ったものの、洞窟内はかなり狭い上に足元には常に水が流れて滑りやすく、大量のコウモリが飛び交っている状態だった。どうにか行き着いた先には、大きな川が流れていたという。渡りたくても手段がなく途方に暮れていると、突然、光が見えてきた。そちらに目をやると、従者の4人がたちまち死んでしまった。

 

 忠常はとっさに頼家から預かった剣を川に投げ入れ、急いで「人穴」から脱出。洞窟から出てきた時には、すでに日をまたいで深夜になっていたという。

 

 その土地に住む老人が言うには、「人穴」は浅間大菩薩(せんげんだいぼさつ)の住まわれる場所だったらしい。みだりに人が入ってよい場所ではないので、実に恐れ多い、無礼な行ないだった、と『吾妻鏡』に記されている。

 

 この時の祟りだといわれているのが、それからまもなくして忠常を襲った非業の最期だ。

 

 忠常は源氏や北条氏にとって忠実な部下であったにもかかわらず、弟の軽挙妄動(けいきょもうどう)によって謀反の疑いをかけられて滅ぼされることとなる。探検からわずか3か月後のことだった。

 

 忠常の弟らも同時に殺されたことで、仁田氏の血脈はここで途絶えたとされている。源氏や北条氏らによる権力闘争に巻き込まれる形となった最期は、悲運としかいいようがない。

 

 なお、頼家に重大な命運が訪れるのも、「人穴」探検の約1年後のことである。

 

 

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小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。著書に『なぜ家康の家臣団は最強組織になったのか 徳川幕府に学ぶ絶対勝てる組織論』(竹書房新書)、執筆協力『キッズペディア 歴史館』(小学館/2020)などがある。

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