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文官として京都と鎌倉を頻繁に行き来した「中原氏」

北条氏を巡る「氏族」たち㉔


7月17日(日)放送の『鎌倉殿の13人』第27回「鎌倉殿と十三人」では、源頼朝(大泉洋)亡き後の新しい政治体制の様子が描かれた。二代目の鎌倉殿となった源頼家(金子大地)は、自分なりの方針を固めていくが、そこへ宿老たちの思惑が重なり、鎌倉に新たな火種が生まれようとしていた。


滋賀県大津市にある石山寺。中原親能が戦勝を祈願して参詣したと伝わる。源頼朝に追討を命じられた謀反人を討つことができたため、親能は報恩のために石山寺に勝南院を建立したという。

より深刻な対立を生んだ権力継承

 

 次の鎌倉殿となった源頼家は、御家人たちの前で所信を表明した。

 

 一同は改めて、新しい鎌倉殿への忠誠を誓ったが、早くも政権内の主導権をめぐって比企能員(佐藤二朗)と北条時政(坂東彌十郎)が頼家の目の前で対立する。

 

 頼家は、比企や北条など「家」の名ではなく、誰であれ、力のある者を登用すると宣言した。強気な頼家の態度の裏には、御家人を信用してはならないと助言する梶原景時(中村獅童)の後ろ盾があった。頼家は、御家人の中では唯一、景時を信頼している様子だ。

 

 そんななか、頼家は有能な若手の御家人を集め、勉強会を開いた。三善康信(小林隆)には政務の基本を、平知康(たいらのともやす/矢柴俊博)には朝廷との交流に不可欠な蹴鞠(けまり)を学ぶ、といった具合だ。

 

 新たな権力者として熱意をもって政務に臨む頼家だったが、次第に理想と現実の狭間に立たされる。経験不足の上、事あるごとに偉大な父・頼朝の名を持ち出され、徐々に宿老たちへの反抗心が芽生えていったのである。

 

 そこで、先代・頼朝からの側近である北条義時(小栗旬)は、政務の要である訴訟について新たな仕組みを提案する。頼家に直接裁定させるのではなく、4人の文官に評議させて、ある程度の道筋をつけ、頼家に取り次ぐ。文官と頼家の間をつなぐのが、頼家の信頼する景時、という内容だ。頼家の負担を軽減させる上に経験を積ませるのが狙いだった。

 

 これを聞きつけた比企能員や北条時政は、自分たちも参入することを主張。さらに2人はそれぞれ、自分に属する派閥を形成していったことで、当初5人だったものが12人にまで膨れ上がった。頼朝の死去により尼御台(あまみだい)となった妻の北条政子(小池栄子)は、義時も加わるように命じる。これで13人だ。

 

 自身の力不足をまざまざと見せつけられた格好となった頼家は、さらに態度を硬化。発表された13人の宿老たちに反発する構えを見せ、今後は自らが選んだ若い6人の御家人とともに政を行なう、と言い放った。

 

 弟の北条時連(ときつら/瀬戸康史)や息子の頼時(よりとき/坂口健太郎)も加えた若手の6人を引き連れてその場を立ち去る頼家を、義時は呆然と見送るほかなかった。

 

キリシタン大名・大友宗麟の始祖となった中原親能

 

 中原親能(なかはらのちかよし)は康治2年(1143)に京都で生まれた。親能の父親については大きく2つの説がある。

 

 ひとつは、中原広季(ひろすえ)とする説(『尊卑分脈』)。広季は明法博士(法律の専門家)を務める貴族で、親能と同じく鎌倉幕府を支えた大江広元の実父とされている(養父とする説もある)。この説をとれば、親能と広元は兄弟(あるいは義兄弟)ということになる。

 

 もうひとつの説は、参議を務めた藤原光能(みつよし)とする説(『大友家文書録』)。光能の母が中原広季の娘だったため、親能は外祖父に当たる広季の養子となり、中原氏を名乗るようになったとする。

 

 いずれにせよ、親能は誕生からまもなくして相模国(現在の神奈川県の大部分)の波多野経家(大友経家とも呼ばれていたとされる)に引き取られ、養育されたという。この時に、伊豆国(現在の静岡県伊豆半島、東京都伊豆諸島)に流されていた源頼朝と知り合ったようだ。

 

 その後、成人した頃に京都に上り、朝廷の官僚となった。しかし、当時、同じく官僚となっていた大江広元と同様、朝廷での出世は頭打ちとなっていた。

 

 そんなさなかに頼朝が挙兵(治承4年/1180)。それからわずか34か月後に親能は朝廷から姿を消した。頼朝との関係を平家から追及されるのを恐れたためといわれている。親能は平家に掌握されていた朝廷の目をかいくぐり、頼朝に京都の情勢を密かに伝える役を担っていたようだ。親能が鎌倉に下り、頼朝の家人となったのは、ちょうどこの頃のことである。なお、大江広元は親能の紹介で招かれ、頼朝の家人になったといわれている。

 

 親能は頼朝と朝廷の橋渡し的な役割を多く担った。そのため、京都と鎌倉の間を頻繁に行き来している。ドラマの中で頼家が、土御門通親の襲撃事件に際して親能に上洛を命じているのも、こうした親能の役割を背景にしたものだった。

 

 頼朝の死後は、跡を継いだ頼家を支えるために選ばれた13人の宿老のうちの一人となった。つまり、親能はドラマのタイトルになっている『鎌倉殿の13人』のうちの一人である。

 

 13人の宿老に選ばれてまもなく、頼朝の次女である三幡(さんまん)が14歳という若さで急死。悲嘆に暮れた親能は、その日のうちに出家した。というのも、親能の妻が三幡の乳母を務めていたからだ。こうした間柄は、頼朝からの信頼が厚かったゆえとされている。

 

 出家した後も13人の宿老の一人として幕府の運営を支えたが、その頃は朝廷と鎌倉との関係は概ね良好だったことから、親能に目立った功績は見られない。

 

 親能は承元2年(1209)、京都で病死した。

 

 息子の季時は頼朝の生前から側近として重用され、父と同じように朝廷と幕府の交渉役を務めた。承久3年(1221)に起こった承久の乱では、宿老として鎌倉の留守役という大役を任じられている。

 

 親能には大友能直(おおともよしなお)という養子もいた。能直は親能に譲られた豊後国(現在の大分県の大部分)で勢力を確保し、大友氏の始祖となった。その子孫には、豊後のみならず、筑前国(現在の福岡県西部)、肥後国(現在の熊本県)など6か国を手中におさめた戦国時代のキリシタン大名・大友宗麟(おおともそうりん)がいる。

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小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。著書に『なぜ家康の家臣団は最強組織になったのか 徳川幕府に学ぶ絶対勝てる組織論』(竹書房新書)、執筆協力『キッズペディア 歴史館』(小学館/2020)などがある。

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