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源頼朝に信頼され、活躍した弟・範頼はなぜ流罪となってしまったのか?

今月の歴史人 Part.3


源頼朝が征夷大将軍に就任し、支配体制を固めていくなか、内乱期に活躍した頼朝の弟・範頼(のりより)にも疑いがかかる事態が発生する。また、朝廷との連携を強化すべく上洛に伴った娘・大姫(おおひめ)にも不運が訪れる。今回は、弟・源範頼に降りかかった疑いと娘・大姫の不運について解説していく。


 

あだとなった親切。姉を想った範頼の災難

 

源範頼 平家討伐戦では頼朝から大きな信頼を得て、主力武士団を率いる軍の将として多くの戦功を挙げた。国立国会図書館蔵

 

 内乱期、平家追討には頼朝弟の源範頼・源義経(よしつね)が追討軍の大将として活躍した。平家追討・源家再興にこの両人が果たした功績は計り知れない。 ところが、義経は文治元年(1185)、頼朝に謀反して没落、 範頼もまた建久4年(1193)8月、陰謀を企てたとして伊豆へ送られるなど、兄弟の末路は悲劇的である。義経は頼朝への敵対が明確なので自滅的だが、範頼の場合は陰謀の疑いはかけられたが真相は定かでない。

 

 『吾妻鏡(あづまかがみ)』によると同年8月 2日、嫌疑をかけられた範頼は、頼朝へ起請文(きしょうもん/神仏へ虚偽のないことを誓った文書)を捧げ、潔白と忠誠を切々と訴える。一読した頼朝は「源範頼」との署名に目を留め不適切だとケチをつけたものの、これを受け入れた。

 

 ところが同10日、範頼の郎党・当麻太郎が頼朝の寝所の床下に忍び込 んだところを捕縛され、陰謀は明らかとして17日、伊豆へ護送された。その後の消息について『吾妻鏡』は何も語らない。

 

 一方、『保暦間記(ほうりゃくかんき)』では範頼の失脚について、富士の巻狩で曾我兄弟 の仇討ちが決行された際、頼朝が討たれたという誤報が鎌倉にもたらされた。留守を預かっていた範頼が嘆く頼朝正室・北条政子(ほうじょうまさこ)を慰めて、「私がおりますから大丈夫」と語ったことが、後に頼朝に代わって天下を望んだ謀反とされたとする。これもまた真偽の程は定かでないが、このような流説がまかり通るほど、不可解な出来事であったということだろう。

 

 ただ『保暦間記』の記事が重要なのは、同年5月の仇討ち事件と範頼失脚を関連づけている点である。事件のタイミングもあるが、当麻太郎を捕らえた宇佐美祐茂(うさみすけしげ)は、曾我兄弟に討たれた工藤祐経の弟で、範頼の伊豆護送も担当するなど、両事件のつながりを臭わせる。両事件に関連して失脚している御家人も多く、幕府全体を揺るがすような大きな陰謀・混乱が背景にあったと考えられよう。

 

 

頼朝は朝廷との連携工作に奔走 娘・大姫が20歳で死去……

 

大姫頼朝政子夫妻、最初の子として誕生した大姫は木曽義仲の嫡男・義高と許嫁となり、義高の死後も想い続けたという。国立国会図書館蔵

 

 頼朝はこうした幕府内の動揺を抑えてゆくためにも、朝廷との連携を強化し、鎌倉殿の権威と権力を絶対化しようとした。建久6年2月の2度目の上洛は、表向きには東大寺大仏殿の落慶供養(らっけいくよう)への参列であったが、背後には頼朝のそうした政治的な目的が伏在した。頼朝は妻・北条政子、長女・大姫、嫡子・頼家を連れて上洛しており、大姫は後鳥羽(ごとば)天皇への入内を、頼家は天皇への謁見(えっけん)を遂げることで、後継者として承認してもらうもくろみであったと思われる。

 

 ことに前者についての意気込みは並々でなく、故後白河法皇の女御・丹後局(たんごのつぼね)とその皇女・宣陽門院(せんようもんいん)らと再三会見し、砂金三百両ほか莫大な贈物に及ぶなど歓待の限りを尽くす。 それは後鳥羽天皇周辺において、彼女らが絶大な権力を持っていたからであり、大姫入内という目的の達成のため卑屈なまでに接近を図ったのである。

 

 もうひとり、天皇周辺の重要人物が源通親(みちちか)であった。彼は後鳥羽天皇の乳母であった高倉範子(たかくらのりこ)と結婚して天皇にとりいると、範子の連れ子である在子を天皇へ入内させるなど、天皇の近臣として権勢を高めつつあった。

 

 本来、頼朝は九条兼実と政治的に連携して後白河法皇と対抗する姿勢であったが、入内工作を巡って兼実から通親へと比重を移していった。翌年11月、後鳥羽天皇の妃・在子(ありこ)が為仁(ためひと)、後の土御門(つちみかど)天皇を出産すると、兼実の関白を罷免し、その娘中宮任子は内裏より放逐、弟・慈円は天台座主の解任という、いわゆる「建久七年の政変」で通親は政権を掌握した。頼朝はこれら政変を黙認しており、事実上のバックアップといえる。

 

建久7年の政変

 

 これで大姫の入内も実現するかに思われたが、大姫は許嫁であった木曾義仲の子・義高を失ったショックから終生立ち直れず、同8年7月、20歳に満たない一生を終える。

 

 大姫死去に伴って、頼朝股肱の臣で、大姫の後見人であった中原親能(なかはらちかよし)が出家した。大江広元(おおえひろもと)の兄弟で、挙兵期から頼朝を支えていた。その死は幕府を大きく揺るがしたのである。

 

監修・文/菱沼一憲

『歴史人』7月号「北条義時と13人の御家人」より)

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「古代日本の都と遷都の謎」今号では古代日本の都が何度も遷都した理由について特集。今回は飛鳥時代から平安時代まで。飛鳥板蓋宮・近江大津宮・難波宮・藤原京・平城京・長岡京・平安京そして幻の都・福原京まで、謎多き古代の都の秘密に迫る。遷都の真意と政治的思惑、それによってどんな世がもたらされたのか? 「遷都」という視点から、古代日本史を解き明かしていく。