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五摂家のひとつとして明治まで続いた「九条氏」

北条氏を巡る「氏族」たち㉑


6月19日(日)放送の『鎌倉殿の13人』第24回「変わらぬ人」では、弟・源範頼(みなもとののりより/迫田孝也)の行動に不審を募らせる源頼朝(大泉洋)の姿が描かれた。猜疑心の強まる頼朝の様子に、妻の北条政子(小池栄子)や北条義時(小栗旬)、乳母の比企尼(ひきのあま/草笛光子)は不安を覚える。


 

届かない思いが次々に不幸を招く

 

奈良県奈良市にある興福寺。源頼朝の後援を受けた九条兼実は、平氏によって焼き討ちにされ、荒廃していた藤原氏の氏寺である興福寺をはじめとした南都の仏教寺院の復興に尽力した

 

 源範頼は、謀反を疑う源頼朝に釈明を求められる。妻の北条政子や頼朝の乳母を務めた比企尼も範頼を庇い立てるが、頼朝は「疑われるようなことをしたのが罪」と言って取り付く島もない。結局、範頼は死罪を免れたものの、伊豆の修善寺(しゅぜんじ)に幽閉となった。

 

 曽我兄弟の騒動への関与を疑われた岡崎義実(おかざきのよしざね/たかお鷹)は、これまでの功績から罪を許され、出家を命じられた。これで一連の事件にいちおう決着がついたことになる。

 

 騒動が落ち着いたことで、頼朝は立ち消えになっていた娘の大姫(おおひめ/南沙良)の入内の話を進めることにした。しかし、大姫には幼い頃の許嫁である木曽義高(きそのよしたか)への思いがまだ強く残っている。京から下ってきた一条高能(いちじょうたかよし/木戸邑弥)との縁談も勝手に断る始末。なかなか思い通りにならないことに、頼朝は苛立った。

 

 そんななか、木曽義仲の愛妾(あいしょう)であった巴御前(ともえごぜん/秋元才加)の生き方に感銘を受けた大姫は、入内(じゅだい)の話に前向きになった。再び縁談を進めることになった頼朝は、政子と大姫を伴って上洛。しかし、政子と大姫は朝廷内の実力者の一人である丹後局(たんごのつぼね/鈴木京香)に「田舎者」と冷たくあしらわれるという屈辱に見舞われた。

 

 京の厳しい洗礼に怯える大姫はその夜、そっと寝所を抜け出した。三浦義村(みうらよしむら/山本耕史)が建物の一角に潜んでいたところを見つけるも、大姫は高熱を発して倒れた。鎌倉に戻ってからも大姫の病状は回復しない。そして、木曽義高への思いを口にしながら息を引き取った。

 

 大姫の悲劇を範頼の呪詛(じゅそ)のせいと判断した頼朝は、すぐさま動いた。畑仕事に従事しながら日々を過ごしていた範頼だったが、梶原景時(かじわらのかげとき/中村獅童)の放った刺客によって殺された。

 

 このところの頼朝は、悪夢にうなされて熟睡できていない。頼朝が焦燥感に駆られているのは、自分の死期が間近に迫っていることに気づいているからだった。

 

頼朝との結託によって朝廷の実権を握った「九条氏」

 

 九条兼実(くじょうかねざね)は九条氏の始祖となった人物である。

 

 そのルーツは、奈良時代の政治家・藤原不比等(ふじわらのふひと)の次男である藤原房前(ふささき)。彼を祖とする家系は藤原北家と呼ばれた。

 

 藤原北家は、不比等の4人の子どもによる家系である藤原四家の一流で、他には、長男・武智麻呂(むちまろ)による藤原南家、三男・宇合(うまかい)による藤原式家、四男・麻呂(まろ)による藤原京家がある。

 

 四家のなかで最も栄えたのが藤原北家だ。一族の全盛期は、平安時代中期の公卿(くぎょう)である藤原道長(みちなが)の時。道長は摂政や太政大臣を歴任するなど、絶大な権力を握ったことで知られている。

 

 藤原氏の力の源泉は、積極的に天皇家と姻戚関係を結んだこと。さらに、他の氏族を徹底的に排除したことで道長は権力を独占。一族の栄華は頂点を極めた。

 

 兼実は、道長の子孫である九条忠通(ただみち)を父に持つ。

 

 忠通は、摂政や関白を務めた藤原忠実(ただざね)の長男であり、忠通自身も摂政・関白を務めている。

 

 しかし、忠通は父の忠実と対立して、一時、氏長者の座を弟の頼長(よりなが)に奪われるということがあった。氏長者とは氏族の中で最も官位の高い者が就任する氏族の代表者のこと。

 

 再び氏長者を奪い返すきっかけとなったのが、保元の乱(1156年)だ。乱の構造は崇徳(すとく)上皇と後白河天皇との対立で、崇徳上皇には藤原頼長が、後白河天皇には藤原忠通がついた。崇徳上皇の陣営についた源為義(みなもとのためよし)や平忠正(たいらのただまさ)らを打ち破ったのが、後白河天皇の陣営についた、源義朝や平清盛などの武士団だった。

 

 この乱を契機に武士勢力が中央政界に進出。それまで一手に権力を握っていた藤原氏の勢力は衰退していく。

 

 そんななか、忠通の三男として生まれたのが兼実だった。兼実は父から九条の地を譲られたことから、そこに邸宅を構えて九条氏を名乗った。

 

 兼実は若くして右大臣にまで上り詰めたが、武家の平氏が台頭してきたことにより、役職を与えられないまま約20年の月日を過ごすこととなる。

 

 平家を滅ぼそうと源頼朝が挙兵したのを機に、兼実は頼朝に接近。その後援を得て念願の摂政・関白に就任している。一方、頼朝が征夷大将軍に就任したのは兼実の尽力によるところが大きい。

 

 ところが、朝廷内には武家政権に対する反発心が根強く、兼実の立場は微妙なものになっていく。こうした朝廷内の事情を背景に、頼朝も兼実への支援を打ち切った。次第に孤立していった兼実は、近衛家との政争に敗北。建久7年(1196)に引退を余儀なくされた。

 

 その後、兼実は浄土宗の開祖である法然(ほうねん)に師事して出家。政界に戻ることなく、晩年を静かに過ごしている。

 

 兼実の大きな功績のひとつとして挙げられるのは、『玉葉(ぎょくよう)』の執筆である。

 

『玉葉』は長寛2年(1164)から建仁3年(1203)まで綴った兼実の日記。約40年の間に克明に記録されたものは、公私にかかわらず幅広く、同時代の出来事を知る上での一級の史料として研究者の間で重宝されている。

 

 九条氏はその後も代々、摂政や関白に就任している。摂政および関白の職は藤原北家の関係者が就いており、これを摂関家あるいは摂家と呼んだ。

 

 鎌倉時代初期には九条氏と近衛氏が摂関家となったが、やがて九条氏から分かれた二条氏、同じく九条氏の流れである一条氏、近衛氏から分立した鷹司氏を加えた5氏が摂関家として成立。摂政・関白はこの5氏が独占したため、五摂家と呼ばれるようになった。

 

 明治時代に廃止されるまで五摂家は続いた。維新後は華族となり、いずれも公爵という最高位に叙せられている。

 

 

 

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小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。著書に『なぜ家康の家臣団は最強組織になったのか 徳川幕府に学ぶ絶対勝てる組織論』(竹書房新書)、執筆協力『キッズペディア 歴史館』(小学館/2020)などがある。

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