北関東の名族の源流となった「八田氏」
北条氏を巡る「氏族」たち⑱
5月29日(日)放送の『鎌倉殿の13人』第21回「仏の眼差し」では、奥州を平定したことで日本全土を手中にした源頼朝(大泉洋)が、いよいよ上洛へと動き出す。そんななか、幸福の絶頂にある北条義時(小栗旬)と八重(新垣結衣)の夫婦に、思いもかけぬ悲劇が訪れようとしていた。

茨城県つくば市に建つ小田城の城址碑。交通の要衝に建てられた平城で、八田氏の代々の子孫が居城とした。15代氏治の時に奪われて佐竹氏の支城となった後に廃城。国の史跡に指定されている
ひと時の平穏が訪れた鎌倉を襲う悲劇
全国から兵を募り、源義経(菅田将暉)亡き後の奥州平泉に攻め込んだ源頼朝の軍勢は、たやすく制圧を果たした。ついに日本全土を掌握した頼朝は、最後の仕上げに取り掛かる準備に入る。後白河法皇(ごしらかわほうおう/西田敏行)との対決だ。
神がかり的な強さを誇った義経を失ったことは、共に戦ってきた鎌倉の御家人たちを意気消沈させた。義経の失脚に一役買った梶原景時(かじわらかげとき/中村獅童)に対する御家人たちの目線は、自然と冷たい。
そんななか、自身の子どものみならず、孤児を引き取り養育している八重のもとに、鶴丸(つるまる/佐藤遙灯)という子どもが新たにやってきた。八重の活動を聞きつけた八田知家(はったともいえ/市原隼人)が連れてきた子どもだ。
政争の果てに殺された我が子である千鶴丸(せんつるまる)に似たものを感じた八重は、粗暴な振る舞いをする鶴丸にも、他の子どもたちと変わらない愛情を注ぐ。頼朝の妻である北条政子(小池栄子)は、そんな八重の献身を「徳のある行い」と称賛した。
そんなある日のこと。子どもたちが川で遊んでいたところ、鶴丸が川に流されてしまう。周囲がただ見守ることしかできないなか、八重は突き動かされるように自ら川へ入り、鶴丸を救出。その直後、今度は自身が流され、行方不明となる。
決死の探索が続く一方、八重の夫の北条義時は、父の北条時政(坂東彌十郎)と弟の北条時連(ほうじょうときつら/瀬戸康史)とともに、伊豆の願成就院(がんじょうじゅいん)を訪れていた。時政は、仏師・運慶(うんけい/相島一之)に作らせていた仏像を完成した本堂に安置するのだという。運慶の作った仏像の優しげな表情に、義時は妻・八重の面影を重ねていた。
「戦国最弱」小田氏治を輩出した一族
八田知家は宇都宮宗綱(うつのみやむねつな)の四男として生まれた。宇都宮氏は下総国(しもうさのくに/現在の千葉県北部、埼玉県の一部、東京都の一部)の有力豪族で、知家はその庶流にあたる。母が八田局だったことから、八田姓を名乗ったとする説がある。なお、知家が本拠としたのは、常陸(ひたち)国八田(現在の茨城県筑西市八田)だ。
兄の宇都宮朝綱(ともつな)は京都で平家に仕えており、妹の寒河尼(さむかわのあま)は頼朝の乳母を務めていた。
始祖は、平安時代の公卿(くぎょう)である藤原道兼(みちかね)とされている。道兼は、同じく平安時代中期に太政大臣まで務めた公卿の藤原道長(みちなが)の兄。また、知家には源頼朝の父である源義朝(よしとも)の落胤とする説もあるが、確たる証拠はない。
保元元年(1156)に京都で勃発した保元(ほうげん)の乱の際に、宇都宮宗綱と八田知家は義朝の家人として従軍した。保元の乱は知家の初陣だったといわれている。治承4年(1180)の頼朝挙兵の際には一族をあげて駆けつけ、頼朝の平家打倒を支えた。
寿永2年(1183)に、頼朝の叔父にあたる志田義広(しだよしひろ)による反乱が起こっているが、この鎮圧で戦功を立てたのが知家だ。知家は文治5年(1189)に行なわれた頼朝による奥州合戦にも東海道大将軍として参陣している。その後、常陸守護に任じられ、本拠を下総国から常陸国(現在の茨城県)に移した。
頼朝の死後、知家は2代鎌倉将軍・源頼家(よりいえ)を補佐する宿老に選出されている。つまり、知家はドラマのタイトルになっている『鎌倉殿の13人』のうちのひとりである。
頼朝はもちろんのこと、2代将軍・頼家、3代将軍・実朝(さねとも)にも重く用いられた知家は、義朝の戦いにも従軍していることから、源氏4代にわたって仕えた忠臣ということになる。
知家の子どもたちは、小田氏、茂木氏、宍戸氏、中条氏を名乗り、それぞれの氏の始祖となった。
近年、「戦国時代最弱の大名」として注目を集める小田氏治(おだうじはる)という武将がいる。関東の強敵に囲まれながら、本拠の小田城(茨城県つくば市)を9回も奪われては取り返すを繰り返した武将だが、知家はその小田氏の始祖にあたる。小田城を築城したのも知家だ。
武勇に秀でた知家と、最弱といわれた氏治のイメージは結びつきにくいが、いずれにせよ、北関東の名族たちの源流に八田知家の名があることは間違いない。