平家全盛の時代から頼朝を支え続けた「三善氏」
北条氏を巡る「氏族」たち⑯
5月15日(日)放送の『鎌倉殿の13人』第19回「果たせぬ凱旋」では、後白河法皇(西田敏行)と源行家(杉本哲太)に振り回されたことで、源義経(菅田将暉)と兄の源頼朝(大泉洋)との関係が修復不可能なものとなった。失意の義経は、何処かへ姿をくらますことになる。
兄弟の衝突を不可避にした後白河天皇の策略

神奈川県鎌倉市に建つ問注所跡。当初は頼朝の屋敷内にあったが、手狭となったため、二代将軍源頼家の時代に現在の場所に移設されたという。
兄の源頼朝に鎌倉での面会を拒絶された源義経は、京に戻った。そこへ叔父の源行家が訪ねてくる。行家は挙兵して頼朝を倒そうと持ちかけるが、義経に頼朝と敵対する意思はない。
そんななか、鎌倉では義経を受領にする案が持ち上がる。大江広元(栗原英雄)の発案だった。受領就任がなれば、検非違使を退任することとなり、京を離れ、鎌倉に戻ることができる。頼朝と義経との仲を取り持とうとする、御家人らの知恵を絞った策だった。
ところが、後白河法皇は受領と検非違使(けびいし)の兼任という前例のない判断を下した。つまり、京を離れることができない。義経は落胆するも受けざるをえなかった。一方、自身より法皇の言いなりになる義経に対して頼朝は激怒し、両者の関係はますます悪化してしまう。
こうした状況のなか、京から三善康信(みよしやすのぶ/小林隆)がやってくる。鎌倉に設置された問注所の執事に就任した康信は、頼朝と義経との関係に法皇が意図的に介入しようとしているとの分析を披露した。
いわく、法皇は頼朝と義経がぶつかることをむしろ望んでいる節があるという。法皇は、大きな力が生まれると、必ずそれに抗う力を作ろうとする、というのだ。
そこで持ち上がったのが、頼朝らの父である源義朝の菩提を弔う勝長寿院(しょうちょうじゅいん)での供養だ。ここに義経を参列させるのが、兄弟の仲を修復する最後の機会といえた。
千載一遇の機会とばかりに義経は参列に前向きだったが、行家に猛反対される。鎌倉行きの許しを求めた法皇には「行かないで」と懇願される始末。法皇は迫真の演技で仮病を装い、義経を京に縛り付けようとしていた。
思うように事が進まず、焦りを感じていた義経は、ある夜、襲撃を受ける。刺客は、義経の妻の里(三浦透子)と行家が放ったものだったが、行家の策略によって鎌倉からのものと思い込まされた義経は、法皇より頼朝追討の宣旨を受け、ついに鎌倉に対し挙兵することになった。
源平合戦ではほとんど出陣しなかった頼朝が自ら先頭に立ち、鎌倉勢は京へ向けて出撃。
一方、義経のもとには兵が集まらない。あまりに不利な情勢を目の当たりにした行家は、義経を焚き付けた張本人であるにもかかわらず、早々に戦線を離脱。義経は挙兵から一転、姿をくらました。
義経失踪の知らせを受けて、頼朝は撤収。法皇は頼朝追討の宣旨を取り消し、義経追討の宣旨へと切り替え、頼朝に与えたのだった。
頼朝は北条時政(坂東彌十郎)を京に派遣して、義経を捕縛する任を命じる。随行した北条義時(小栗旬)の前で、法皇は、追討の宣旨は義経に脅されて出したと話した。しかし、義時は頼朝からの言葉として、その言葉を信じてよいものかどうか、と詰め寄る。
追い打ちをかけるように、義時は義経および行家を捕らえることを名目に、西国諸国の統治を法皇に認めさせた。すべて、法皇を支えるための施策であることも付け加えた。
その夜。時政と義時の宿舎に、失踪したはずの義経が突如現れた。義経はすっかり生気を失っており、時政も義時も言葉がない。行家や法皇に振り回された上、頼朝との関係の修復はもはや絶望的と思い知らされた義経は、再び行方をくらますことにした。
その後ろ姿を見送りながら、義時は時政に静かに言った。
「九郎(義経)殿はまっすぐすぎたのです。羨ましいほどに」
代々能吏として能力を発揮してきた文官一族
「三善氏」の源流をたどると、三善宿禰(みよしすくね)という姓に行き着く。
三善宿禰は百済(くだら/朝鮮半島にあった王朝)からやってきた渡来人の一族で、その祖先は近肖古王(きんしょうこおう)と呼ばれる百済の王に遡る。一族は渡来後に錦部連を名乗っていたが、805(延暦24)年頃に一族の一部に三善宿禰への改姓が許されており、903(延喜3)年頃に三善に姓を改めたようだ。
当時、一族の三善清行(みよしのきよゆき)が文章博士や大学頭といった学問を司る役職から、政治の中枢部分である参議宮内卿にまで出世を果たしている。その影響から、子孫たちも官僚職、あるいは学問の分野の役職に就くようになる。
もうひとつ、漢(現在の中国にあった王朝)の東海王の末裔とされる波能志も三善氏の始祖にあたる。波能志の子孫は錦宿禰を名乗っており、977(貞元2)年頃に三善への改姓が認められている。
こちらの系統では、1000(長保2)年頃に一族の三善茂明(みよししげあき)が主税頭兼算博士に任じられたとの記録が残る。茂明の子孫らも代々、算博士(さんはかせ)を受け継いだ。算博士とは、算術を研究したり、教えたりする者を指す。
つまり、三善氏には「百済系」と「漢系」の2系統が存在し、いずれも渡来系であった。そして、いずれの系統も学問の部門で秀でた家系だったことが分かる。
ドラマに出てくる三善康信は、漢系の一族とされる。
康信は、有能な官僚として朝廷で腕を振るっていたようだ。ところが、平家が台頭してくる辺りから昇進ができなくなっている。というのも、康信の叔母にあたる人物が平家にとって敵方である源頼朝の乳母だったから、ということが関係しているらしい。
叔母との縁を意識してか、康信は頼朝が流人だった頃からせっせと京都の情勢を伝える役割を担っている。当時、「平家にあらずんば人にあらず」とまでいわれて栄華を誇った平家の世にあって、源氏との結びつきを康信が重視したことは、頼朝にとって何よりの援助となった。
康信はほとんど10日に一度のペースで京都の動静を頼朝に送り続けている。そのうちのひとつが、1180(治承4)年6月のもの。そこには、「以仁王亡き後、令旨を受け取った源氏はすべて滅ぼせとの命が出ている。清和源氏の正統な継承者である頼朝は特に危険だから、早く東北に逃げた方がいい」といった内容が書かれていた(『吾妻鏡』)。
この康信の忠告が、頼朝挙兵の一因になったといわれている。
1184(元暦元)年頃、康信は頼朝の招きで鎌倉に移り、大江広元らとともに頼朝の政務を支える一翼を担った。
1191(建久2)年に頼朝が問注所を設置すると、その初代執事に就任。問注所とは、幕府内での訴訟における取り調べ調書の作成などを司る役割で、いかに康信が初期の鎌倉幕府における重要な人材として、頼朝に篤く信頼されていたかがうかがえる。
康信の子である行倫、康俊、康連は、それぞれ矢野、町野、太田を家名とした。康信退任後の問注所執事は康俊が継承したものの、後に町野系は失脚して京都に移り、六波羅探題に転じている。その後の問注所執事は太田系が継いだ。行倫の矢野系も評定衆となるなど、一族の多くは幕府に文官として務めている。そして、その後の北条氏による幕府運営を支えることになっていく。
なお、三善康信はドラマのタイトルである『鎌倉殿の13人』のうちの1人である。